月子さん

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 家族はずっと二人きりだと確信した頃、僕たちは郊外の山深い土地に家を建てた。コンクリートの打ちっ放しで統一された二階建ての新居は山の斜面にあって、どの部屋もーーとくにリビングダイニングは象がスケートできそうなほどーー広かったが、一番の自慢は二階の寝室から続く広々としたバルコニーだった。森や山々が遠くまで見渡せたし、それ以外の余計なものは何も視界に入らない。夜はさながら、特別に設えられた星空へ続くランウェイのようだった。    月子さんはベッドに横たわっている時間が多くなった。はじめて左手の爪先が消え始めてから、七日が過ぎていた。左腕の半分ほど、それから左足首も、僕の知らないところへ消えてしまった。  月子さんは相変わらず病院には頑なに行きたがらない。ベッドの祭壇に横たえられ、神の使いを待っているかのように謐(しず)かだった。  僕は大学を休むようになった。彼女の世話を焼き、華奢な肩を繰り返し撫ぜるのが日課になった。焦りだけが募っていった。  注意深く観察し続けてわかったことは、月子さんの肉体は少しずつ見えなくなっていくこと。その速さは時計の針ように一定で、速くなったり遅くなったりすることはない。体の一部を失くしたことで月子さんはもちろん不自由なのだけれど、それを苦痛だとは感じないようだった。 「人間にしっぽがないのを、変なことだとは感じないわよね。何だか、そんな感覚なの。もともと私に左手は、なかった。左手っていう概念が、頭の中からごっそり消えてしまったような感じなの」月子さんはそう言っていたが、僕にはよくわからなかった。足が消えたからといって、さもはじめから足がなかった生き物のようにーーベッドに棲む生き物のように振る舞えるものだろうか。  彼女は足首が消え始めてから、歩くのもままならない様子だった。棒のようになった足先に体重を乗せると、切っ先がやはり痛むのだ。僕は彼女のために松葉杖を買ってきた。 「この前のお月様。きれいだったよね」  ベッドに用意されたスープを口に運びながら、ふいに月子さんは言った。スープがスプーンから溢れて、シーツに一滴、しみをつくった。  ちょうど七日前、僕たちはバルコニーのベンチに二人並んで、お月見をしたのだ。  満月が藍色の夜空を一様に明るくしていて、黒い山々が静かに沈んでいた。夏の終わりを告げるような肌寒い風が吹いていたが、毛布を二人で被っていたから気にならなかった。  僕は日本酒を、月子さんはウイスキーのロックを握りしめて、出会ってからの思い出について取り留めもなく話し続けた。カササギかトビゲラのような声を響かせて、彼女はのけぞって転げそうなほど笑っていた。彼女は笑い上戸だったのを、思い出した。夢のような夜だった。 「酔っ払っていて、あまり覚えてないんだけど。あなた、何か言いかけて途中で止めてしまわなかった?」 「何のことだろう。そんなの、その時言ってくれなくちゃ忘れちゃうよ」 「……そうよね」  僕は覚えていた。あの夜だけは、あまり笑わなくなっていた月子さんがとびきりの笑顔を見せてくれて、僕の心は躍っていた。今なら言ってしまえると思ったんだ。でも結局言い出せなかった。月子さんに苦しみの種を植え付けることになるだけだから。月子さんのために、思い止まったのだ。 「もう、おやすみ。大丈夫。きっと起きたら全部元どおりになっているよ」  月子さんは大人しくベッドに横になった。僕は彼女に覆いかぶさって、そっと抱きしめた。白く滑らかな首筋に鼻先を擦り付ける。 「きみがいなくなったら、僕はどうしたらいいのかわからない」  本心だった。月子さんはずっと死ぬまで僕の隣にいてくれるものだと、そう思ってきたから。 「しかたのない人」  月子さんはふいに僕の頬を両手で包んだ。ひんやりとした指先はそのまま首筋を下がっていき、僕のはだけた鎖骨のあたりの凹凸をなぞった。そこには一筋、ざらりとした傷跡がある。数年前にできた細い切り傷に、月子さんはことさらに執着する。右手の指先が傷をなんども往復した。  そのうちに、手はぱたりとベッドへ落ちていく。月子さんはゆっくりと、深い眠りの世界へ旅立っていった。    中島智恵が書く哲学思想史のレポートは、例外なくA+だった。  僕の鎖骨の傷は、彼女がつけたものだ。振り下ろされた刃の最初の一太刀を避けることができずに、猫の引っかき跡のようなそれは、洗面所の鏡の前に立つたびに忘れてくれるなよと耳元に囁いてくる。彼女はきっともう忘れているだろう。僕だけが繰り返し思い出す、そのためにつけられた痕なのだ。 「レポート、どこに出したらいいですか」教授室のくたびれた扉のところに女学生が一人立っていた。レポートの締切り日はまだまだ先のはずだった。僕は、締切り前になると部屋の前に出しておく書類カゴを差し出した。レポートの表紙には「善と悪の問題 二年 中島智恵」と書いてある。 「ああ、あなたが中島さんか」彼女は驚いて僕の方を見た。 「この前の自由論のレポート、すごくよく書けてたよ」  中島さんは頬を紅潮させて、ありがとうございます、とお辞儀をした。長らく美容院には行っていなさそうな髪を無造作に後ろに束ねて、二、三千円だと一目でわかる薄いネズミ色のニットを着て、花柄のスカートからは若々しい脂肪をまとったふくらはぎが突き出ている。顔の造作は悪くないのに、コーラル色のチークが悪目立ちしていた。勉強の得意な地味な娘さんが、大学に入って急に見た目に気を遣い始めたような垢抜けなさがあった。 「あの、私、授業の中で、哲学思想史が一番楽しみなんです」  レポートをカゴに入れてもなかなか立ち去らない中島さんは、急にそんなことを口走ったかと思ったら、風のように消えていた。そして翌週も教授室へやってきた。 「先生が授業で紹介していた本、読んでみたんです。これ」  手に握られていたのはレポート用紙の紙束で、びっしりと本の読書レポートが綴られていた。僕は少し面食らって、その場でパラパラとめくってみた。
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