月子さん

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「熱心だねえ」「授業が面白くて。先生の教え方が、うまいからです」蚊の鳴くような声で彼女は俯いた。  レポートは完璧で、少し背伸びをしているが、僕が考えたこともないような視点を提供してくれる示唆に富んだ内容だった。レポート用紙の上で理路整然と雄弁に語る彼女と、しどろもどろ下を向いて何とか声を出す彼女の姿が、どうしても一致しなかった。  その次の週に彼女が別の本のレポートを片手にやってきた日、僕は彼女をご飯に誘った。君と自由論についてもっと話したい、とか何とか言って。  中島さんは男から褒められたり好意を向けられたりすることに慣れていないようだった。慣れていないというより飢えている様子で、危うさすらあった。「奥さまが、お家で待ってるんじゃないですか」 「優しいんだね。でもあなたはそんなこと気にしなくていいよ。若いんだから、もっと食べて」  言葉とは裏腹に、彼女はお茶に誘えばついてきたし、ホテルも同様だった。そんな無防備さに悪点をつける男もいるだろうけれど、僕にとっては新鮮で魅力的に映った。「ふつうの」「若い」「女子大生」に恋愛感情を向けられたことに酔ってもいた。月子さんとの関係を作っていくときも心がときめいたけれど、中島さんに対するアプローチはもっとスリリングで仄暗く、手練れていたと思う。  僕は中島さんの爪先から体の奥までをひとつずつ、味わうように知っていった、そして僕の形を丁寧に教えていった。ミツバチが蜜の匂いに誘われて、白く柔らかい花弁をかき分け奥深くまで勇敢に進んでいくように、どこをどうすればいいのか、その手順がよくわかった。その欲望に身を委ねて自分を解放するだけでよかった。花はいよいよ芳香豊かな蜜をしたたらせ、ハチを迎え入れた。立場とか年齢とか、記号的なものを取り去って野生の生き物に戻っていく行為に、僕達は溺れていった。 「このまま消えてしまいたい」中島さんはベッドの上でたびたびそう言った。今が幸せすぎて。あるいはこの時間が終わったら僕とは離れ離れになってしまうから。いずれにしても男冥利に尽きるその言葉に、僕は図に乗った。  もちろん、中島さんは消えたりはしなかった。  中島さんは大学の近くに一人暮らしをしていて、小さなワンルームを僕はときどき訪れるようになった。月に一回は二週間に一回になり、すぐに週に三日ほどになった。仕事の終わりに、彼女の作る夕飯を食べて、セックスをして、何食わぬ顔で月子さんの待つマンションへ帰っていった。中島さんは僕が既婚者であることも、中島さんと結婚する気などないことも飲み込んで、僕に愛情を注いでくれた。もの分かりのいいふりをする、健気な子だった。 「先生。奥さんとは子どもつくらないんですか」  はじめて体を重ねてから二年ほど経った頃だろうか。局部をティッシュでぬぐいながら、中島さんはため息を吐くように言った。彼女は急激に変わった。どことなく、強かになった。その言葉にも、好奇心や無神経ではなくて、悪意とか嫉妬とかをにじませていた。  僕は月子さんを侮辱されたような気になった。月子さんは流産したばかりで、僕も気が立っていたのかもしれない。勝手だと自分でも思うけれど、中島さんを抱けば抱くほど、僕の中の月子さんはより清らかに光り輝くのだった。 「欲しいとは思っているよ。でもこればっかりは授かりものだから」こんな月並みなひどい返答を中島さんが喜ぶはずはないのはわかっている。でも彼女の望む答えを与える気は、もうなかった。中島さんとの道に外れた爛れたセックスは手放しがたかったけれど、彼女の腹に隠されたナイフは日に日に研ぎ澄まされ強靭になっていて、見て見ぬ振りをするのは難しくなっていた。 「今日で最後にしよう」  僕は下着とズボンを着たところで、中島さんは全裸だった。  本棚にはいつのまにか企業面接の本が積まれ、窓際には就活用のスーツが掛けられている。いいタイミングだと思った。彼女は閉塞した大学から巣立っていこうとしている。貴重な人生の時間をこんなオジサンのために浪費しているのは気の毒でもあった。こんな男は忘れて幸せになってもらったほうがいい。  たぶん、そんな偽善をそのまま伝えてしまったのがよくなかった。中島さんはそういうことをすぐに見抜くのだ。もっと何か、率直に本音を吐露すればよかったのに、僕は彼女の誠実さを裏切ってしまった。 「……勝手に私の幸せを決めないでください」  長い長い沈黙を破って、中島さんは俯いたままくぐもった声を出した。  中島さんは思い立ったように立ち上がると、台所のほうへドスドス歩いて行って、さっき食べたシチューの鍋を取ってくると、残りの中身を感情的にぶちまけた。鈍い金属音がして蓋がはずれ、白く生暖かい液体の大部分はローテーブルと僕の膝へかかり、カーペットに染みてゆく。  まだ腹の虫が治らないと言わんばかりにもう一度台所へとって返した中島さんは、今度は包丁を手にしていた。最初の一太刀が、避けきれなかった僕の鎖骨へ食い込んだ。僕が中島さんの動きを封じると、中島さんは身をよじって抵抗して、そのついでみたいに腹の底に溜めていた汚い言葉を散弾銃のように浴びせかけた。変態とかエロじじいとか、思いつく限りの罵詈雑言を。 「あんたなんか、孤独死しろっ」  その言葉が妙に耳に残っている。彼女はその言葉たちを腹の中に溜めて、たぶんそれすら愛しいと思っていてくれたのだ。何かたった一つの瞬間があれば、たぶん女性は、他には目をつぶってまるごと包み込んでくれる、そういう愛し方をしてくれることがある。信頼関係を壊してしまったのは僕で、腹の中のものは元あった場所に返却されたーー僕のほうへと。  力では勝てないと思ったのか、ある程度気が済んだのか、彼女は徐々に抵抗を止め、力なくへたりこんだ。淫毛が寂しかった。  僕は残りの服をつかんで、靴をつっかけて部屋を出た。「待って」小さく背中に届いた声を、僕は置き去りにした。  それから何度か連絡を取ろうとしたけれど、彼女のためにならないと思いとどまった。
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