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一度だけ、彼女を街で見かけたことがある。
丸の内OLのようなカジュアルなビジネススーツに身を包み、耳や首元は控えめなアクセサリーで飾られていた。装いは学生の頃より洗練されていたけれど、バッグは動きやすいようにか黒っぽいリュックで、引っつめ髪も相変わらずだ。ちょうどランチの時間帯で、洋食屋の入り口にあるハンバーグ定食の見本の前で立ち止まり、入るかどうか時間をかけて逡巡している様子だった。本当に美味しい店かどうか、付け合わせは何か、もしかしたらカロリーのことを気にしていたのかもしれない。たったそれだけのことだったけれど、僕はひどくほっとした。恋愛の燃えかすすら肥やしにして、しなやかに大人になってゆく自由な魂を見た気になった。彼女は月子さんとはまた違うーーもちろん誰とも違う彼女だけの小径をたどって、どこかを目指して着実に歩いてゆくのだろう。
未練がましい僕の感傷など意にも介さずに。今や股座から泉のように溢れ出す生ぬるい液体と、抱えあげた太ももの内側の感触、唾液の甘さ。抱きしめた骨格と肉付き、快楽の鳥肌。それだけが彼女を思い出すときのすべてだ。
消え始めて九日目が、月子さんが完全にベッドに棲む生き物になる前の、最後の日になった。僕は久しぶりに大学へ行っていた。休講にした授業を振り替える見通しが立たないこと、この先も欠勤が続くのでレポート課題で穴埋めをするつもりだということを学科の事務員に伝えて、平謝りでことなきを得た。久々の授業を終えてすぐに帰ると、部屋の中が一変していた。
まだ夕方で、日が沈む一瞬前の闇が、透明なゼリーのようにリビングに沈んでいた。
転倒したミシンが目に入った。裁ちばさみや布、こまごました裁縫道具が近くに散乱していた。作りかけの服も、透明な子どもがジャンプしているような形で散らばっている。ハチドリの巣をイメージした帽子はアイボリー、グレー、ベージュの順で打ち捨てられている。僕が記念日にプレゼントし続けたアクセサリーの数々。気に入りの北欧の食器は割れていた。鳥の図鑑やファーブル昆虫記、自然写真を載せた雑誌のバックナンバー。新婚旅行でコスタリカに行った時の思い出の写真立てーー彼女はリスザルを間近に見て大興奮して、私もリスザルになりたいと言っていた。その一つ一つの記憶を撫でながら、僕は寝室へと歩を進めた。ベッドの傍に、松葉杖が放り出されていた。最後の仕上げだと言いたげに。
ベッドはこんもりと山をつくっていて、月子さんが寝ていることがわかった。頭まで毛布をかぶっていて、眠っているのかどうかわからない。耳を澄ませる。規則正しい呼吸が届いて、僕はほっと胸を撫で下ろした。
踵を返してそっと寝室を出て行こうとして、何かがおかしいことに気づいた。壁に掛けられていたはずの大きな仏教画がなくなっていて、見れば床に裏返しに倒れていた。
僕がむかし古道具屋で安く買った十界図を、インテリアのつもりで額装して飾っていたのだった。怖いからやめて、と月子さんは言っていたけれど、ただただ白いだけの寝室に、曼荼羅の派手な色と模様はとてもよく映えるのだ。
「怖いって、どのへんが。ああ、地獄のあたり?」十界図は仏教でいうところの輪廻とか悟りの世界を図解したものだから、地獄の炎のなかで鬼に釜茹でにされる人々やら、刀葉林の責め苦に喘ぐ人々が描かれていて、確かに寝覚めに見て気持ちのいい絵ではなかった。「それもそうだけど。その、観音様みたいなのが怖いの」図の上の方に、月と太陽に挟まれ、雲に乗って来迎する阿弥陀如来が描かれていた。月子さんはまるでそれが生きてこちらを見ているかのように、視線を気にした。「目が怖いの」寺に行って仏像を見た時も、月子さんはたまにそういう過敏な反応をした。今まで真剣に取り合ったことはなかったけれど、絵をもう一度壁に飾る気にはならなくて、僕は額を床から拾い上げて、そっと裏返しに立てかけておいた。
僕もこの絵が苦手になっていた。絵の中には、頭だけ人間にすり変わった牛や馬が描かれている一帯があって、それは強いものも弱いものもお互いを傷つけ合う畜生道ーー動物や鳥、虫たちの世界を描いているのだけれど、ある時期から、僕はその人面獣を見るたびに中島さんと自分のことを思い出してしまうのだった。
「帰ってたの」
背後から声がした。
「ごめん、起こしちゃったね」
僕はベッドに歩み寄り、月子さんが半身を起こすのを助けた。あまりに軽かった。水色のシルクの寝間着は、左腕と左足が蛇の抜け殻のようになっている。右足首も少しずつ無くなりはじめていて、四肢のうち無事なのは右腕だけだ。
消えた体はどこへ行ってしまったのだろう。
それらは消え去ったのではなくて、どこかへ移動したのではないかと僕は思うようになっていた。テレポーテーションのように、どこか別の次元へ。
「夢をみたの」
月子さんはまだ半分向こうにいるような目で言った。
「どんな夢?」
「冷たかった。澄み渡っていて、何もないの。死ぬことさえない」
僕は黙って彼女の黒髪を撫でた。
「ここは、砂嵐みたいにうるさいわ。時間とか、人の感情とか気持ちが吹き荒れてる。でもそれが心地いいの」
耳を澄ませてみた。
静けさの中に、家路を急ぐジョウビタキの地鳴きが、かすかに届いた。
「罰が、あたったのかしら」
「何を言うんだよ」
何の罰だというのだろう。報いを受けるとしたら僕のほうだ。
「月子さんは何も悪くない」
僕は精一杯優しい声を出した。
「……そうね。私も悪くないし、あなただって、悪くないの。誰も悪くない」
切実な願いのように呟いた。
僕の腕には月子さんの頭ぶんの重さがある。
「ねえ」
月子さんは言った。
「あなたは、私が消えて欲しくないって思ってくれてる?」
「もちろんだよ」
本心だった。
「信じてる?」
「信じてるよ」
疑う余地もないように僕はすぐさま頷いて応えた。
「祈ってね」
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