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月子さんはいつになく心細げだった。その唇は今にも透けて消えてしまいそうだった。信じて、祈る。その行為にどれだけの意味があるのか。宗教学を教えているくせに、僕はこれまで考えたこともなかった。俄かに何かを試されている気になった。誰にかは、わからないけれど。
小鳥のような麗しい声を発する彼女の声帯は、もう消えてしまった。月子さんの声が僕の名前を呼ぶことはない。
「きみは知っていたんだろう」
僕の過ちを。答えは返ってこない。あるいはどこかで聞いているのだろうか。
僕は月子さんの右手を両の手で丁寧に開いて、手のひらにキスを落とした。誰に教わったわけではないけれど、手を愛するための正しい所作はそれ以外にないような気がした。
手首から上は空白だ。でもベッドの上には、この手首の先には、月子さんがいるのだ。しどけなく横たわって、こちらをじっと見ているのだ。
あの夜。二人、バルコニーで満月を見た夜、これから過ごす二人の時間が果てしなく、途方もなく長いと感じた。一瞬だったけれど、僕は疎んだのだ。
月子さんは寛容で、知的で、聡明な女性だ。月子さんは怒鳴ったり苛立ったりしない、笑顔の似合う女性だ。野生の鳥や虫や動物を愛して止まない無垢な人だ。月子さんは僕にとって唯一無二の存在だ。月子さんは、月子さんは……。
明日は新月だった。森はいよいよ静まりかえった。
真っ暗な夜に向かって。僕はゆっくりと目を閉じた。
(了)
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