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二人の部屋はいつも一人だった。彼は朝早くに家を出て夜遅くに帰ってくる。接客業のため土日も祝日も仕事がある。彼の休みは平日。しかし、平日は私が仕事。私が仕事から帰ってきた時、先に部屋にいた彼は夢の中。彼が仕事から帰ってきた時、先に部屋にいた私は夢の中。
もう一年近く二人で住むこの部屋がまるで一人で住んでいるようだった。
彼も私もお互い仕事だから仕方ない。そんなことは分かっていた。……いや分かっているつもりだった。
「あのバカ! また勝手に私のシュークリーム食べたのか……」
「……テレビつけっぱなしで寝やがって……」
「朝ご飯に卵四つ使ったな!」
私以外の人の痕跡を見て初めて彼を実感する。もうこの生活が三か月ぐらい続く。
「あ……。久しぶり……」
「……ん」
「……仕事は?」
「……今日休み。そっちは……?」
「大雪予報だったから元から店を閉めてる」
「……」
「……最近どう?」
「……別に」
これが絶賛二年目の同棲カップルである。もはや別れたカップルが道端でばったり出会ったような会話であろう。
いつから私達の間にはこんな溝が開いてしまったのだろう。お互いが忙しくなった最初の方はカップルとして会話が出来ていたはずだ。ラブラブとは言えないが、カップルらしいキスやハグもしていた。
一年に一回しか会えないのに、毎年しっかりあって何百年も愛し続けられる織姫と彦星は正直にすごいと思う。私達の間を通る天の川はもうどちらも渡ろうとはしない。そろそろ潮時かな……。私達も……。
「見てください! 東京は大雪でございます。まだまだ雪は降り積もる予定で……」
「さっ……。俺は一眠りするかね」
テレビの音だけが響き渡る四角い箱の中。久しぶりに二人の生命が揃ったが、気難しい空気が箱の中を支配していたため、彼は我慢できずに逃げ出そうとしていた。
「あのさ……」
「……ん?」
とっさに私の口から言葉が出る。しかし、脳は理解できていない。
言葉とは二つの部分から出ている。私はそう思っている。
一つ目は脳からの言葉だ。ほとんどの日常会話が脳から伝達した言葉を声帯が発している。
二つ目は心からの言葉。「凄い!」だとか、「美味しい!」だとか、心が感じた感情が脳に伝達されず、そのまま声帯に伝達されて言葉が漏れるという表現が正しいだろう。
私が放った「あのさ……」は普通なら一つ目の言葉で何か続きがあるはずなのに、あれは確かに二つ目の言葉であった。心から漏れたのだ。
「……何?」
「……」
心から出た言葉に続きはない。必死になってこの言葉の続きを脳が頭の中の資料から答えを探す。脳からの言葉だったフリをするために。
「あんた前さ。私のシュークリーム勝手に食ったろ!」
脳が最終的にたどり着いた答えは「文句」だった。
「……え?」
「それに、この前だってテレビつけっぱなしで寝てたしさ」
「……ごめん」
「それに卵使い過ぎ!」
「……」
今までたまっていた文句がダラダラと飛び出してくる。しかし、私はやるせない気持ちになった。脳の考え抜いた答えは正解じゃなかった気がした。心が放った言葉は文句なんかじゃなかったんだ。脳と心が喧嘩をしている。
「ミナミこそよぉ!」
「……!」
「お酒飲みっぱなしで寝るしよぉ!」
「風呂自動のボタンつけっぱなしだしよぉ!」
「ミカンのごみも捨てないじゃねーか!」
あぁ……。私はなんて馬鹿なんだ。彼からの文句を言われた今になって心が求めたものはこれじゃないと分かった。そして本当の正解に気が付く。脳は文句を選んだが、心は文句とは真逆の者を求めていた。
……久しぶりに彼と出会えて心の底では嬉しかった。まだ心の底では彼への愛が消えていなかったんだ。もっとたくさん話したかったんだ。それを脳が私自身に隠していたんだ。
脳が邪魔して心のありのままの感情で素直に生きられない。ずっと自分で勝手に自分の首を絞めていた。
「……ごめん」
この謝罪は脳からなのか心からの言葉なのか分からない。
「……いいよ……俺の方こそごめんね」
「……」
再びこの部屋を包んだのは沈黙だった。もう私達、ダメかな……。今になって自分の本当の気持ちに出会えたのにな……。
「なんかさぁ……。二人とも休みだし……。色々話さない?」
この沈黙を破壊したのは彼の方だった。
「いいの?」
「いいよ」
自分の感情にすら気づけない私だ。彼の感情なんて分かる訳がない。
しかし、彼ももっと一緒にいたいという気持ちは変わらないのかな。そうだといいな。
外に雪が降り始めた。二人の部屋にも二人が長い間ためていた気持ちが降り積もった。
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