屋敷を去る

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屋敷を去る

「気がついたかい?」  目を覚ましたのは、自分の寝台の上であった。  しばらく天蓋を見つめていたけど、寝台の脇にある椅子にだれかが座っていることに気がついた。 「よかった」  若い男性の声である。 「あの……」  驚いて起き上がろうとしたら、彼がわたしの背中に手をあて支えてくれた。 「失礼。本来なら、レディの部屋でこのようなことをすべきではないのだろうけど……。その、なんというか、複雑な事情があるようだから」  そこではじめて、彼と目を合わせた。  どこかで見たことがある。  部屋の灯で銀髪が輝いていて、瞳は夏の青空のようにきれいな蒼色。  美形すぎて、こちらが恥ずかしくなる。 「ユイ。お父様のこと、心からお悔やみ申し上げる。それと、葬送の式に間に合わず、すまなかった。せめて、お悔やみだけと思ってやってきたのだが……。きみが庭をあるいているのを見かけ、追いかけてそれで……。とにかく、きみの父上は、わたしの良き戦友であり師であった。退役されるときいて、踏みとどまってもらおうと、何度も喧嘩をしてしまった」  戦友?師?  彼の顔にばかり集中していたので気がつかなかった。  軍の礼服姿であることに、やっと気がついた。  お父様同様、胸元にいくつもの勲章がぶら下がっている。 「ありがとうございます。それから、助けてくださって重ねてお礼申し上げます」 「突然のことで、さぞかし大変なことだろう」  彼は、一つうなずいてから続ける。 「ユイ、きみは覚えていないだろうね。昔、わたしたちは会ったことがあるんだけど」  記憶の糸をたどっていると、美形すぎる顔にいたずらっぽい笑みが浮かんだ。 「わたしは、きみに平手打ちを食らわされたんだ。『女でも強いのですよ。このような幼稚なイタズラをするあなたこそ、弱い男です。こんな弱い男は大っ嫌い』、きみはそう怒鳴った。そのとき、わたしは十二歳だった」 「え?まさか、あの……。第二皇子様?」 「当たり。あのときはすまなかった。きみにヘビを投げつけ、女性は弱いものだって嘲笑った。だけどきみは、ほかの令嬢とはちがっていた。ヘビをやさしくつかみ上げると、茂みに行って放してやり、わたしの前に戻ってきて平手打ちを食らわせた。それから、啖呵をきったわけだ」  あれは、わたしの人生で最高の汚点である。  あのとき、まさかいたずらっ子が第二皇子だなんて知らなかった。だから、後でそれをきいて卒倒しそうになった。  お咎めがなかったのが奇蹟だった。  おそらく、お父様がうまくやってくれたのだろう。 「あの、申し訳ございません」 「謝罪は必要ない。あれは、わたしが悪かったのだから。さて、お悔やみもすんだ。身内でも婚約者でもないわたしが、きみの部屋にいるのはよくないだろう。今夜のところは、これでお暇させていただく」  第二皇子は、わたしの手を取ると口づけをした。それから、部屋をでていってしまった。  そのあと、わたしはサリーナに居間に来るようにと呼ばれた。  お父様の葬儀が終わり、屋敷内もようやく静けさを取り戻したところである。  サリーナの横に、わたしの婚約者であるカール・ウッドストックが立っている。  わたしが居間に入ってゆくと、かれらは親密そうに語り合っているところであった。  ついさきほどの口づけを思いだしてしまう。  カールは婚約者がありながら、サリーナは夫がありながら、どちらも不貞を働いていたわけね。  わたし自身のことより、お父様が気の毒でならない。  あれほど誠心誠意尽くされていたのに……。  あふれそうになる涙を必死にこらえた。  わたしにも意地がある。  立派な軍人であり将軍であるお父様のためにも、毅然とした態度でいなければならない。  そして、カールから婚約破棄を告げられた。  それから、サリーナに「ここにはいづらいでしょうから、予定通り別荘に行きなさい」と命じられた。  もちろん、そのつもりである。  彼女と同じ屋根の下にいるつもりなど、毛頭ない。  だけど、彼女にマルグリット家をどうにかされるのは口惜しい。  しかし、いまのわたしには何もできない。  まだお父様の死を受け止めきれていないこともある。  じっくりかんがえる時間が必要だわ。  だから、予定通り別荘に行くことにした。  予定を早め、その二日後に出発した。  カールは、サリーナに寝取られたのかほだされたのかはわからない。  彼は、あの夜以降わたしの前にあらわれなかった。  そして、サリーナもわたしと顔を合わせることを避けていた。  わたしは、生まれ育った屋敷から去った。
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