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婚約破棄
「さすがに、今はまだ……。せめて喪が明けてからでないと……」
「では、本人にだけでも早急に婚約破棄を言い渡すと約束してください。発表は、喪が明けたらにしましょう。わたしとの婚約のことも含めてね」
「わかった。わかったよ」
「じゃあ、すぐにでもしてちょうだい。いいわね?」
ボソボソと声がきこえてくる。
悲しみと気鬱と重苦しさとで呼吸がしにくくなり、新鮮な空気を求めて庭にでてみた。
東屋に向かいかけたとき、建物の陰からそんなささやき声がきこえてきた。
そちらのほうに近づき、レンガ造りの壁からそっとのぞいてみた。
月明かりの下、男女が口づけをかわしている。
それはもう、幻想的できれいな光景である。
男女は両眼を閉じ、おたがいの唇を貪りあっている。
その瞬間、目の前が真っ白になってしまった。足がふらついたのを、倒れないようかろうじてもちこたえた。
呼吸が荒くなり、目眩がする。
とにかく、ここを離れなければ。
見てはいけないものを見てしまった。のぞいてはいけなかったのである。
後悔をしてもはじまらない。
呼吸が苦しくなってきた。
一歩、二歩とうしろに下がっているつもりが、足がもつれてしまってうまく下がれない。
あっと思った瞬間には、うしろ向きに体が倒れていた。
「おっと」
が、倒れなかった。だれかの声が聞こえたような気がした。
そのだれかが抱きとめてくれたのだろうか。
そのときには、気を失ってしまったのでわからなかった。
お父様が亡くなった。
隣国との戦争が締結してから、将軍の一人であるお父様もお屋敷ですごすことが多くなった。
若いころから軍人として活躍されていたお父様は、この戦争で退役する決意をされた。
昔、お父様は戦場にいて、妻、つまりわたしの母との死に目に合えず、わたしとすごす時間もほとんどなかった。
『ユイ、おまえが准将と結婚するまでの短い期間、別荘で一緒にすごさないか?これまで、おまえにはずっと寂しい思いをさせてきた。その埋め合わせをしたい』
そうおっしゃったお父様は、すごく穏やかな表情をされていた。
わたしに異存があるわけもない。
すごくうれしかった。
だから、すぐに快諾した。
だけど、継母はお父様が退役をして田舎の別荘で余生を送る決断をされたことにたいして、不満を抱いていた。
継母サリーナは隣国の王族の遠縁で、お父様はおしつけられた形で再婚された。
お父様はおしつけられたとはいえ、結婚したからには継母を大切にされていた。
しかし、年齢が離れているし、ある意味では人質という背景もあるからか、継母はお父様を嫌がっていた。
彼女は、わたしより五歳しかちがわない。
気持ちはわからないでもない。
わたしだって同様の立場になれば、彼女とおなじようにお父様を避けたかもしれない。
お父様の努力は、相当なものだった。
少しでも彼女を喜ばせたい。こんな男やもめのおじさんとでも、共にしあわせを感じてもらいたい。
その一心で尽くされていた。
わたしだったら、時間が経つにつれて心を動かされたでしょう。
だけど、彼女は頑なだった。
そんな状況である。彼女がわたしをどう扱うかは、語るまでもない。
わたし自身、彼女と母娘というよりかは親友としてでも仲良くなりたかった。だから、何かと話しかけたり誘ったりした。
だけど、それも月日が経つうちに諦めてしまった。
お父様のためと思って頑張ってみたけど、邪険にされて心が折れてしまったのである。
そんな中、お父様が亡くなってしまった。
来週、別荘に移る予定だったので、準備に忙しくしていたさなかの出来事であった。
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