最期に思うこと

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「おめでとう」 そう言われなくなってどれくらい経っただろうか。妻が死んでからだから、もう10年か。子供のいない夫婦だったから、毎年お互いの誕生日は二人でささやかに祝っていた。子供が欲しいと不妊治療もしていたのだが、うまくはいかず、その時期は一喜一憂して苦しい思いもしていた。それでも、子供を諦めてからは、二人で楽しく好きなことをして過ごしてきた。子供がいない分、お金にも時間にも余裕があり、よく二人で旅行にいった。 (北海道のイクラ食べ放題はうまかった。) 二人で行ったホテルのディナー、苦しくなるまでおかわりをして食べた。その時は二人して、「もうイクラは見たくない」と言っていたが、数日もしないうちに無性に食べたくなって取り寄せたりなんかした。そんな思い出も30年以上も前のことだが。 ーもう、ここらで。 昨年の誕生日から密かに考えていたこと。1年かけて身辺整理を丁寧に行った。終活というものか。子供がいないのが大きなメリットだとつくづく思う。 現世の未練がない。 最期の晩餐は何にしよう。私は服毒自殺用の薬品をポケットに入れて、街に繰り出した。 もう、二度とこの景色を見ることがないと思って歩くと、なかなか見えないところに目がいく。新しい発見に驚きながらも、どこか気持ちは遠くにいってしまっていた。妻と一緒に歩いた頃から、街の様子はずいぶん変わっているのだが、変わる前の街並みが頭の中で蘇る。その映像を脳内で作り出しながら懐かしさに浸っていると、突然後ろから肩を叩かれた。脳内の過去の街並みが消え去る。 「パパ」 美しい黒髪、品の良さそうな眼鏡をかけた女性が笑顔で私を呼びとめた。見たことがあるような気もするが誰だかわからない。おそらくキャバクラのお姉ちゃんだろう。仕事をしていた頃は、付き合いでよくお酒を飲みに行っていた。よく見ると化粧で隠しきれない目尻のしわが見え、年代的にぴったりだと思った。 「え~と」 正直、今は人とは話したくない。のんびり日が暮れるのを待ちたいと思っている。彼女は私の顔を覗き込みながら、 「どこ行くの?」 とたずねる。 「奥さんと待ち合わせているんだ」 そういって歩き出すと、 「嘘。」 彼女が回り込んで、進行方向に立ちふさがる。こういったぐいぐいとくるタイプは苦手なはずなんだが。過去の自分がこのタイプとお酒を飲んでいたはずはないと思いながら、 「本当だよ」 そういってまた歩き出す。 「お願いがあるの」 彼女はそういって私の手を握る。 (何かの詐欺かな。) そう思いながらも、私は悪い気がしなかった。人と話ができたことが嬉しかった。たいした額でもないが何かの縁だ、有り金全部この子にくれてやろう、そう思っていた。
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