最期に思うこと

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「覚えてないよね」 ガランとした部屋の中、彼女は座布団に座ると私を見上げる。悲しそうなその顔に見覚えはなかった。 「会ったことがあったかな?」 「うん。マジェンタってお店。」 やっぱり。得意先の社長とよく行ったお店。 「酔ったあなたがよく話してくれた。素敵な奥さんの話、とても羨ましかった。そして、酔いつぶれる前に話してくれた産まれるはずだった女の子のお話。ちょうど私と同い年で、誕生日と流産した日が一か月違いだったからとてもよく覚えている」 「バカなことを考えるのはやめなさい」 私は部屋の机に乗って、天井の柱に括り付けてある縄をほどいた。 「大和さんも死のうと思ってたでしょ」 驚いた。 「図星だね。だから私は声を掛けたの」 表情を変えていないつもりだったのだが、読まれてしまった。 「よく、私の名前を憶えていたね」 動揺を悟られないよう、自殺のことではなく自分の名前を憶えていたことを褒めた。 「大切なお客様だったから」 「絶対に死ぬことは許さない」 この子が本当に産まれてくるはずだった桜の生まれ変わりなのでは、という気がしてきて全身に熱い血が行き渡っていく感覚を覚えた。彼女が柔らかく笑う。 「生きろ。とりあえず死んではいけない」 「それ、あなたが言います?」 「君はまだ若い」 「もう40になりますけど」 「まだ何でもできる。」 必死で説得する私に対し、あたたかな表情。切羽詰まった先ほどまでの感じとは少し違うようだ。 「わかった。生きてみるよ。とりあえずもう少し。そのかわり、おじさんも生きること。生きるなら何か楽しいことがしたいな」 彼女の嬉しそうな姿に安心感を覚えたが、自分自身が死ねなくなってしまったことが少し気になった。
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