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「どう、緊張してる?」
「痛いところをつかないで欲しいな。もうずっと震えてるよ」
「寒さででしょう。名古屋はどう? 気温はどれくらい?」
「最低気温が二度らしいよ。雪があたり一面に降り積もってる。電車も動いてないみたいだし、もう一泊しないと駄目かもしれない」
タカハシはホテルのベッドに寝そべりながら携帯を耳に当てて、婚約者へと電話をかけていた。暖房を付けてはいるが、まだ部屋が温まりきっていないし、それに少しカビ臭い匂いが鼻についた。
十二月下旬。タカハシは愛知県名古屋市の栄駅から徒歩五分ほどの場所に位置しているホテルに一泊していた。
仕事の関係で東京から名古屋へと出張したタカハシは、東京へと戻らずにそのまま一泊した。本当なら、今朝の新幹線で大阪へと向かって、婚約者である芹沢愛子の実家に挨拶に行く予定だったのだが、寒波と積雪の影響で交通機関の運行が一時見合わせとなり、大阪に行くことができなくなってしまった。
「ごめん。ようやく結婚前の挨拶に行けると思ってたのに……」
タカハシは携帯越しにいる愛子に謝るしかなかった。彼女は昨日から実家に泊まっていて、今日の正式な結婚の挨拶の為に色々と準備をしてくれていたのに、申し訳がない気持ちでいっぱいになってしまう。
「貴方が謝ることじゃないでしょ。でも、わかった。父さんと母さんには私から事情を説明しておくから。もう少し独身生活を楽しんでみたら? 一晩くらいの浮気なら見逃してあげるけど」
電話越しの愛子は、タカハシをからかって楽しんでいる様子だった。
『馬鹿なこと言わないの!』と、電話の向こう側から女性の声が聞こえてきた。おそらく愛子のお母さんだろう。
とても優しげな声だったので、タカハシはほっと胸を撫で下ろす事ができた。それに食器同士がカチャカチャと鳴る音がタカハシの耳に聞こえてきた。
家庭の音が聴こえる。それもまたタカハシの心をより一層と優しい気持ちにしてくれた。
「心配しなくても大丈夫だよ。僕の浮気相手はビートルズだけだから」
「もう、本当に貴方って好きよね。あ、そうそう、あのレコードはきちんと持ってきてくれてるよね?」
「当たり前だろ。僕と君の馴れ初めの逸品なんだ。忘れたりなんかしないって」
「良かった。必ず持ってきてね。父さんと母さんに見せてあげたいから。それじゃあ、また明日。あたし、待ってるから──」
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