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いつも通りの通勤路だが、どうしようもなく心が躍って、はしゃぎたくなる。そんな自分を大人しくさせようと、信号待ちで、おもむろにダッシュボードからタバコを取り出し――だが、思いとどまった。すると、尚央は不思議そうに見つめて訊ねる。
「タバコ、取る?」
「ううん、いい。ありがと」
朝、出勤途中に運転をしながら、タバコを吸うのは拓海の習慣だった。気持ちが高ぶってしまったとき、落ち着こうとしてタバコを手に取るのも、長年のクセのようなものだ。そうはいっても、タバコの味が好きなわけでもなく、おいしいと思ったこともない。ただ、学生の頃、友人に誘われて吸い始めてから、やめる理由もなく、習慣化してしまっていた。だが、妙なことに、今はそんな気分にもならない。タバコを吸うなんて、もったいないと思ったのだ。尚央とふたりきりでいられる、この貴重な時間を誰にも邪魔されたくなくて、タバコすら、ためらったのだ。
「禁煙、してみよっかなー……」
ひとりごとのように、そう呟いてみた。すると、尚央は「ふうん?」となんとも言えない相槌をうってから、拓海の顔を心配そうに窺って訊ねる。
「タバコ、嫌いになったの?」
「うーん、そうかも」
「どうして?」
「どうしてかなぁ。尚央はどっちが好き? 禁煙したおれと、タバコ吸ってるおれ」
拓海が訊ねると、尚央は間髪入れずに「どっちも好き」と返す。拓海はくす、と笑みを零した。その返事を聞く限り、彼は拓海が禁煙しようが、喫煙者でいようが、本当にどっちでもよさそうだった。
美術館へ到着すると、拓海は尚央を連れて、足早にカフェへ向かった。当然だが、まだ開館時間前なので、尚央をひとりだけ庭に残していくわけにはいかない。警備員に見つかれば当然、怪しまれるだろう。理由を話せば誤解はすぐに解けるだろうが、それも面倒だ。しかし、篠崎なら、こんな時は融通を利かして開館までの時間、尚央をカフェに置いてくれるに違いない。
従業員用の駐車場には、すでに篠崎の車がある。その隣には、嶋の車もあった。
「篠崎さんと千春くん、もう来てるみたい。開館時間まで、休めるように言ってあげるね」
「ありがとう」
拓海はカフェに入り、篠崎と千春に理由を話してから、彼らに尚央を託した。そうして、ひとり美術館内へと向かう。途中、寂しくなってカフェの方へ振り返ると、尚央はカフェの前に立ち、手を振ってくれた。
尚央……。
いつまでも見送ってくれる尚央の姿に、胸の奥がきゅっと狭くなる。思わず駆け出して彼のもとへ戻りたくなるが、拓海は大きく手を振り返すと、必死に思いを振り切って、館内へ入った。
「……おはざーす」
「おはよう。昨日はどうも」
「こちらこそ……」
事務室にはすでに嶋の姿があった。だが、彼の表情を見た途端、拓海はぎょっとして顔を引きつらせる。ひどくうさんくさい笑顔だ。
「なんなの、にやにやして……」
「いやいや。仲がよさそうでなによりだと思ってな」
「は?」
「尚央くん、連れてきたんだろ」
「え、なんで知ってるの……」
「千春からメールがきた」
「はっや……」
拓海は呆れて眉を上げる。嶋と千春の情報共有の速さは、いつだって異常だ。
「幸せそうだな」
「当たり前でしょ、付き合ってんだから……」
「そうだな。まったく微笑ましいよ」
「恥ずかしいから、そういうのわざわざ言わないでいいよ、おっさん」
ぶっきらぼうにそう答えたあと、ふと、思う。今、この事務室にはまだ嶋と拓海しかいない。拓海は念入りに周囲を見回した。転職したきたばかりなのに、世話になっている先輩にもう転職の相談をするなんて、普通ならとてもできないが、それができるのは、学生の頃から付き合いのある彼くらいなものだ。
「ねぇ、りょ――じゃなくて、嶋さん」
「ん?」
「あのさ。おれ……、そのうち尚央と、その……一緒に暮らすつもりなんだけどさ」
「うん」
「尚央がこっちくると、たぶん、生活するのにすげえ不便になっちゃうから、あっちで家、見つけようかなって思ってるんだ」
「ふうん、それで?」
「いや、そうすると、なんつーか……。また転職しなくちゃなんないじゃん、おれ」
「まぁ、鎌倉から毎日、那須まで通勤はできないからな。しょうがない」
あっさりとそう言われて、拓海はぱちぱちと瞬きをする。もっとも、早すぎる転職の相談をしたところで、嶋が反対するとは思えなかった。彼はその理由も、拓海の性格もよくわかっているはずだ。しかし、それにしてもあっさりしている。
「しょうがない……」
「あぁ。だって、ずっと鎌倉と那須で離れたまま、行ったり来たりじゃお前、我慢できないだろ」
「うん、ムリ」
「なら、あっちで転職先を見つけるしかない。まぁ、それにしたってあと二、三年はいたほうがいいとは思うけどな。恋人ができたからって理由で一年弱で転職したなんて言われたら、採用側も警戒する。ちゃんとうまい理由を作っといたほうがいい」
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