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聞き慣れた音が、耳のそばでしつこく鳴り続いている。それがケータイのアラームだと気づいて、拓海は重いまぶたをうっすらと開けた。習慣のように枕元を手で探ろうとしたが、片手が塞がっていることに気付き、頬が緩む。ひとまず、空いている方の手を伸ばし、アラーム音を切った。
部屋のカーテンの隙間からは、明るい日が差し込んでいた。かすかに鳥のさえずりと一緒に、蝉の鳴き声が聞こえてくる。いつも通りの朝に、いつも通りの部屋。しかし、このベッドの中だけがいつもとは違っている。拓海は、布団の中で塞がっている片手をそっと口元へ近づけ、優しく握り直し、愛おしい温もりに、恍惚として甘えた。
尚央、あったかい……。
これは夢でも妄想でもない。隣に眠っているのは、美しい恋人だ。
「ん……、拓海……」
不意に可愛らしいかすれ声に呼ばれ、拓海は振り向いた。誤って口付けてしまいそうなほど近くに尚央の顔があって、思わずドキッとさせられる。
「尚央、起きた?」
「んー……」
起きてはいるが、起きたくない。そう言わんばかりに尚央は唸り、拓海は笑みを零す。時刻はまだ六時半。もうしばらく、尚央のわがままに付き合うくらい、時間の余裕はある。
「もうちょっと、こうしてよっか……」
すうすうと寝息を立て始めた尚央を見つめながら、拓海は多幸感に満たされ、ため息を吐く。尚央と再会し、そのままあっけなく恋に落ちてしまってから、まだ二ヶ月も経っていない。恋人になってからはもっと短い時間しか、過ごしていない。それなのに、ふたりでベッドでこうしていると、長年連れ添ったパートナーのように感じてしまうから不思議なものだ。
ずっと一緒に、こうしていられたらいいのにな……。
拓海は空いている手を伸ばし、そっと尚央の頬に触れた。彼の体温が指先から伝わってきて、どうしようもなく愛おしくなって、胸の奥がきゅうっと縮んだように苦しくなる。こんな朝を迎えられるのも、あと数回。尚央は盆が明ける前には鎌倉へ帰ってしまうのだ。
「尚央……」
信じられない。あと数日で、尚央とまた会えなくなってしまうなんて。もうこんなふうに、彼に触れなくなるなんて。今、耳元で聞こえている穏やかな寝息だって、寝言だって、あと何回聞けるのだろう。それを思うと、こんなにそばにいるのに、拓海は寂しくてたまらなくなった。
「尚央……」
「ん……」
「帰っちゃ、やだよ……」
ひとりごとを言うように、小さく、そう呟いてみる。すると、次の瞬間。尚央は優しく拓海の体を抱き寄せた。拓海は尚央の腕に抱かれながら、ドキドキと胸を高鳴らせる。
「尚央……?」
聞こえているのか、いないのかわからない。だが、この抱いてくれる腕は寂しさを拭ってくれていた。「離れていたって、大丈夫だよ」と、囁いてくれているような気もする。拓海は尚央の胸に顔を埋め、穏やかな呼吸に耳を傾けた。だが、やはり、途方もなく幸せなはずなのに、同時に切なさが募っていく。こんな朝が、いつか当たり前に訪れるようになるまで、あとどれくらいかかるのだろう。
早く、尚央と一緒に暮らしたいけど……、そう簡単じゃないよなぁ……。
尚央との同棲を決意して、気持ちばかり逸らせても、物事には順序というものがある。まずは、鎌倉から通える場所へ転職をして、ふたりで暮らす家を見つけなければならない。それから、その家を購入するなり、契約するなりして、尚央の家族にもちゃんと挨拶を済ませ、尚央と同棲をすることを許してもらわなければならない。自分の両親にだってなにも話さないでおくわけにはいかないだろう。
「はぁ……」
何度目かのため息が出た時。再びケータイのアラーム音が鳴って、拓海は慌ててそれを切る。いつの間にか、時刻は七時になるところだ。
「やば……。もう起きないと……」
本当は、尚央がいる間は有休でも使って連休をとって、思う存分デートしたいものだが、この繁忙期ではそんなわがままも言えない。仕方なく、拓海は尚央から体を離して起き上がる。だが、その時だった。
「拓海……」
不意に、名前を呼ばれ、手を取られた。そのままぐい、と強く引かれ、拓海は再び尚央の胸の中に戻ってしまった。
「尚央……、起きたの?」
「うん。もう時間?」
「そうだね……。おれ、そろそろ支度しないと。尚央はどうする? 一緒に美術館、行く?」
「行ってもいい?」
「もちろん。退屈させちゃうかもしれないけど……」
那須日本画美術館は、見どころの多い魅力的な美術館だが、一日中遊べるほど広くはない。時間を持て余してしまうだろうと思ったが、尚央は微笑んで囁いた。
「大丈夫。前も拓海のこと待ちながら、デッサンしたよ」
「そうだったね。尚央が平気なら、行こう」
「うん。帰るまでは、なるべく拓海のそばにいたいから……」
当然のように尚央はそう言ってから、恥じらうように微笑んだ。その表情と言葉にきゅっと胸を掴まれたように感じて、思わず拓海は尚央に口づける。そうして、キスのあとには駄々をこねるようなわがままが零れた。
「おれも、尚央と一緒にいたい……。一緒に来て、尚央……」
「うん。お昼は一緒に食べられる?」
「もちろん。たぶん二時くらいだと思うから、待ってて」
「待ってる……」
尚央はそう答えたあと、拓海の唇を塞ぎ、甘いキスをくれた。なるべく、尚央のそばにいたい。そう思っていたのは、尚央もまた同じだったのだろう。彼の想いが唇から伝わってくるような気がして、拓海は恍惚としながら、尚央に抱かれ、キスを受け入れた。
危うく、起き抜けのままセックスを始めてしまいそうになったが、なんとか理性を奮い立たせ、身支度をして、拓海は尚央と共に家を出た。エンジンをかけ、車が走り出すと、尚央は助手席の窓を開けて、吹いてくる風を受け、目を細める。拓海も釣られたように微笑み、いつも通りに車を走らせた。
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