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嶋は肯定も否定もせず、引き留めることもなく、ただ淡々と答えた。たぶん、彼の言っていることは正しいのだろう。しかし、拓海は口を尖らせる。
「……わかってるよ」
そう、言われなくてもわかっている。けれど、最短でもあと二年。あと二年も、尚央と遠距離恋愛を続けなければならないなんて、とても拓海は辛抱できない。――とはいえ、嶋の言う通り、前職から一年弱での転職は、理由はどうあっても、誰に対しても、あまりいい印象は与えないだろう。それに、ふたりで暮らす家だって、まだ見つけられていない。尚央の家族にも、会って話さなければならないのだ。
「わかってる、けど……」
「けど、もう離れていたくない、か」
「そりゃそうだよ」
「尚央くんに、しばらくこっちにいてもらうってわけには……いかないか」
拓海はかぶりを振る。たしかに、その選択肢もある。そばにいてほしいとねだれば、彼はおそらく、わがままを聞いてくれるだろう。だが。
「尚央がそうしたいって自分で言い出してくれるなら、おれはいいけど……。そうじゃなきゃいやだよ。尚央は優しいから、たぶん……、嫌だって言えないで、おれに合わせちゃうと思うから」
「へえ。なるほどな……」
そう言うと、嶋は深くため息を吐き、じいっと拓海を見つめる。なんとも妙な視線に、拓海は眉をしかめた。
「な、なに……」
「いやいや。おっさんは感心してるんだよ」
「なにが」
「秘密」
「はぁ?」
嶋はなにやら嬉しそうな笑みを浮かべている。拓海はわけがわからず、首を傾げた。まったく、彼の思考回路は理解できない。
「おはようー。いやぁ、今日も暑いねぇ」
ほどなくすると、室長が出勤してきて、転職の相談はそこまでとなった。拓海は何食わぬ顔で仕事の準備を始める。結局、嶋がくれたのは当然の意見だったが、拓海は改めて思った。このまま、二年も遠距離恋愛を続けるなんて寂しすぎる。なるべく早く、尚央のそばにいられるように、段取りを取りたいところだ。
まずは、家探し。……いや、それより、尚央の家族に話すことが先か。尚央に、話したらなんて言うだろうな……。
やがて、始業時間が来て、パソコンを開く。いつも通りの業務を始める。しかし、転職や引っ越し、尚央の家族のことが頭の片隅に引っかかってしまったままで、どうにも仕事に身が入らなかった。ため息ばかりが出て、心がどんよりと濁っていくような心地がする。だが、その時。机の上で、ケータイが震えた。
「尚央……なわけないか……」
画面に映っているのは、メールの受信通知だ。しかし、その差出人を見た途端、顔が引きつった。差出人は嶋だった。
なんなんだっつーの……。
同じ事務室内にいながら、わざわざメールを送ってくるなんて、余程言いたいことがあったのだろう。ひょっとしたら、このメールに書かれているのは、彼のお得意の説教かもしれない。そうに違いない、と拓海は確信し、うんざりしてメッセージに目を通す。だが。
『悩みがあるなら、恋人を頼れよ。好きな人が頼ってくれないってのは、寂しいもんだぞ』
それを読んだ途端、心の中にあったよどみが、すうっと流れていくような気がした。拓海は頬を緩ませる。彼の言うことはやはり正しい。背中には視線を感じるが、振り向かず、拓海はすぐにメッセージを返した。
『ありがとう。そうするよ』
その日の午後二時過ぎ。拓海は席を立って、急ぎ事務室を出た。捗らない仕事も、答えの出ない悩みも、きっと尚央と話せば変わるだろう。そもそも、拓海は自分のことばかり考えていた。尚央と早く一緒に暮らしたくて、妄想しては気持ちだけが逸ってしまっていた。だが、拓海がせっかちなように、尚央にだって、ペースがあるはずだ。
尚央に……、相談してみよう。
美術館の庭はたくさんの観光客で賑わっている。特に、この美術館の人気スポットである桜チャペルの周辺には、行列までできていた。日向の芝生ではスタッフが長いホースで水を撒いている。拓海はキラキラと輝く虹色のアーチの奥へ目を移した。そうして、思わず笑みを零す。その先に植えられている大きなレモンの木。そのそばに、尚央はいた。
「尚央!」
声を張って彼を呼んだ。すると、尚央は振り返り、手を振ってくれる。拓海は手を振り返し、駆け出した。早く彼に触れたくて、触れてほしくて、胸の鼓動が急激に速くなっていくのを感じる。
きっと彼は、アゲハの幼虫でも探していたのだろう。見慣れないつばの大きな麦わら帽子を深めにかぶっていて、顔はよく見えないが、背丈と立ち姿を見れば、すぐに彼だとわかる。
「尚央!」
「拓海、おつかれさま」
人目も気にせずに抱きついてしまった拓海を、尚央は優しく受けとめてくれた。そのまま、ぎゅっと抱きしめられると、もうたまらなく嬉しくなって、笑みが零れてしまう。たった数時間、離れていただけなのに、まるで数年会っていなかったような抱擁だった。
「尚央、帽子かわいいね。どうしたの?」
「篠崎さんが貸してくれたんだ。日に焼けるからって」
「そうだったんだ。似合う、似合う」
「あ、ありがとう……」
拓海は尚央の手を取り、カフェへ向かう。昼時をもう過ぎているせいか、店内の客はすでにまばらだが、厨房の中からは、まだ忙しそうな音が聞こえていた。拓海は店内へ入ると、カウンター席へ腰かける。尚央はその隣に座り、思い出したように帽子を取って、背もたれにかけた。
「あ、おふたりとも、いらっしゃいませ。おつかれさまです」
「おつかれー」
「おつかれさまです……」
「日替わり、今日は四種チーズのペンネです。まだ残ってますよ」
千春がこそっとそう言って、冷水を二つ、持ってきてくれる。グラスの中には輪切りにしたレモンが入れられて、見るからに涼し気だった。
「やった! おれはそれで。尚央も同じでいい?」
「お願いします」
「はーい」
しかし、残っているといっても、この繁忙期に一番の人気メニューである日替わりランチが偶然売れ残ったはずがない。きっと、残しておいてくれていたのだ。その証拠に、いつもランチタイムになると、必ず店の前に出ているメニュー看板が、今日はなかった。千春は返事をしたあと、厨房へ入っていく。
「尚央、午前中はずっとデッサンしてたの?」
「うん、ちょっとだけ。五枚分くらいかな」
「へえ。ねぇ、それ、家帰ったら見せて」
「いいよ」
何気ない会話が楽しくてしょうがない。拓海は緩んでしまう頬を引っ込めなては、グラスに口をつける。だが、せっかくのランチデートなのに、ふとした瞬間に思い出してしまうのは、やはり物理的な距離のことだった。
――好きな人に頼ってもらえないのは、寂しいもんだぞ。
嶋の言葉を思い出し、咳払いをする。わがままも悩みも、ひとりで抱えたって悶々と考えてしまって、ただ不安になるばかり。だが、尚央はきっと受け止めてくれる。
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