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「尚央……。あ、あのさ……」
「なに?」
「帰っちゃうのって、いつだっけ」
「ええと……。しあさって」
「そっか、しあさってかぁ……」
やっぱり、寂しいな……。
拓海はため息を吐く。今日が終わって、明日が来て、翌日。最後の夜を過ごしたら、きっとあっという間に朝が来て、尚央は鎌倉へ帰ってしまう。また離れ離れになって、当分の間は会えなくなる。それからは拓海はひとり、このベッドで夜を過ごし、朝を迎えるのだ。そうして今頃、尚央はどうしているだろうとか、もう起きているかとか、そんなことばかり考えてしまう。ずっと今までそうだったのに、寂しくて、恋しくてたまらなくて、なにをするにも身が入らなくなる。そんな日々を送るのはもうごめんだ。想像もしたくない。
「おれ、さ……。もう、尚央と離れてるのつらくてさ……」
「うん……」
「だから、なるべく早く同棲したいと思ってる」
「うん、僕も」
尚央は当然のように頷き、そう答える。拓海はぐっと拳を握った。
「お、おれは……、尚央がいないとだめだから……。できれば、次の休みには尚央の家族に会いに行って、ちゃんともう一度挨拶して、早いとこ、あの辺で家、探し始めたい。でも、尚央は……」
自分でも嫌というほどわかっている。もういい年齢で、すっかり大人だというのに、まるで思春期を迎えた少年のように盲目的。おまけにひどい恋愛体質で、依存体質だ。もう今さら、この性格を変えようもない。だが、ひとりでどこまでも突っ走って、尚央を振り回すのだけは避けたかった。
「尚央は……、どう思う?」
おずおずと、そう訊ねる。すると、尚央はふわりと笑みを浮かべ、もう一度頷いた。
「僕もおんなじ」
「ほんと? よかった……。じゃあ、おれ、ほんとに転職がんばらないとだ」
ホッとして、そう言った途端。尚央はハッとした表情でぱちぱちと瞬きをしてから、心配そうに、「大丈夫?」と訊ねた。正直なところ、不安がないわけではない。嶋の言う通り、この美術館であと二年は勤務しておいた方が、転職するにはスムーズなのだろう。けれど、拓海はあいにく、そんなに辛抱強くできていない。二年も待っていられない。
「大丈夫。なんとかする」
「でも……」
「簡単じゃないかもしれないけど、おれはもう尚央と離れてるの、絶対ムリだから……。なるべく急ぎたいんだ」
「わかった」
そう言うと、尚央は微笑んで、拓海の手を優しく握ってくれた。拓海は少し汗ばんだその手の熱を感じながら、心を決める。
「決めた。おれさ、しあさって有休取るよ」
「えっ」
「そんで、尚央のこと、家まで送る」
「家まで……。で、でも……」
「夕さんたちに、もう一度話したいんだ。穂積さんにも、今度こそわかってもらいたい。次の日は休みだから、その日は遅くなっても大丈夫だし」
「でも、僕……。みんなになにも言わないで出てきちゃったから、うんと怒られるかもしれない……。穂積がまた……」
「平気だよ。おれ、今度穂積さんに会ったら、わかってもらえるまでがんばって話すから。ね?」
そう言ってぎゅっと手を握り直すと、尚央は頷き、また微笑む。ほどなくして、千春がランチをふたつ運んできてくれた。ふわりと上がる湯気を吸いこんで、途端に腹が鳴る。ふたりはひとまず、昼ご飯にありついた。
ランチを食べたあとは、以前そうしたように、ふたりで庭を散歩した。レモンの木のそばで、アゲハの幼虫を探したり、どこからかひらひらと飛んできた蝶をそうっと追いかけてみたり。穏やかな時間が過ぎるのはあっという間だったが、不思議なことに尚央と分かれる時になっても、拓海はもう不安を感じなかった。寂しさもなく、ただ、やたらと仕事の意欲が湧いてくるだけ。たぶん、この先の未来計画を尚央と話しながら、過ごす夜が待ち遠しいせいだろう。まったく自分でも呆れるくらい、単純なものだ。
午後七時が近づくと、拓海は美術館の鍵を取り、事務室を出る。午前中、捗らなかった仕事をランチデートのあと、なんとか終わらせたので、閉館作業はいつも通りの時間に始められた。今夜は夕食のあと、尚央と一緒にネットで家探しをするつもりだ。……といっても、夜が待ち遠しかった拓海は、我慢できず、三時の小休憩のとき、不動産の総合サイトをチェックしてしまった。希望条件もしっかり登録しておいたので、ネット上での家探しは多少スムーズになるはずだ。もっとも、該当物件は戸建て、賃貸問わずいくつか見つかったので、もう内見の予定を入れてもいいくらいかもしれない。
拓海は日が落ちかけて、薄暗くなった美術館を見回り、窓や出入り口のカギを閉めていく。そうして、最後に桜のチャペルへ向かった。庭へ出ると、あちこちを見回して尚央の姿を探したが、彼の姿はない。おそらく、カフェにいるのだろう。
早く迎えに行かなきゃ。尚央が待ってる。
思わず、足を速める。だが、正面扉の前まで来て、拓海は立ち止まった。重い正面扉は開けっ放しになっていて、風が吹き抜けていく。夕日が差し込むチャペルのステングラスはピンク色に輝き、木製のベンチや白い壁、バージンロードを照らしていた。その真っすぐ伸びた通路のその先。祭壇の前に、人影がある。
「尚央……?」
「あ、拓海」
そこに立っているのは尚央だった。拓海はホッとして彼に近づいていく。
「びっくりした……。チャペルにいたんだ」
「うん。昼間、人がたくさんいてゆっくり観れなかったから。嶋さんが、閉館前に行くといいよって教えてくれたんだ」
「そっか」
「拓海のこと、考えながら待ってたんだよ」
「ここで、おれを?」
「うん」
頷いて、尚央は手招きをする。しかし、彼はどこか様子がおかしい。両手を後ろで組んで、なにか隠しているように見えるのだ。拓海は目を細め、真っすぐ祭壇へと進んでいく。
「尚央、なにか隠してる?」
「どうしてわかるの?」
「そりゃ、わかるよ。尚央のことならなんだって――」
そう言いかけて、口を噤んだ。尚央は隠していた手を伸ばして、拓海の左手を取ると、薬指に小さな花輪をはめたのだ。
「尚央、これ……」
「千日紅っていうの。かわいいでしょ。篠崎さんが一輪くれたんだ」
「かわいい……。これ、指輪? 尚央が作ったの?」
「そうだよ。拓海にあげようと思って。久しぶりだし、シロツメクサとはちょっと違うから、すごい時間かかっちゃったけど」
左手の薬指には、濃い赤紫の鞠のような形の花が咲いている。拓海がそっと指先で触れてみると、繊細な花びらは、意外にも硬くきゅっと詰まって、しっかりしていた。
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