11 尚央の家出~早瀬拓海~

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 ……もう終わりにしよう。  遠い記憶の中で、いつかどこかで聞いたような声がする。たちまちゾワッと全身が粟立ち、絶望感に襲われた。目の前に立つのは、背丈の高い男。その男をぼんやりと見つめ、一度ため息を吐く。これ見よがしに、なるべく嫌味っぽく聞こえるように。  最後に意地悪をしてやりたくて、わざとそうした。声が震えてしまいそうになったのを、誤魔化す為でもあった。それから笑みを零し、「そう言うと思ったよ」と余裕たっぷりに見せて返してやる。けれど、顔は上げられない。  だめだ、……泣くな。  そう自分に言い聞かせて、必死に心を落ち着かせる。だが。気持ちが悪くなるほど、心臓が高鳴る。   拓海……。  名前を呼ばれ、ハッと気付く。その声に、思わず顔を上げてしまった。だが、どうしてか男の顔が見えない。どんなに目を細めても、凝らしても、視界がぼやけている。ただ、この声で、こんな風に拓海を呼ぶのは、一人しかいないのだ。少なくとも遠く悲しい記憶の中にいる男ではない。一度、声を聞いただけで、こんなにも温かくて、優しい気持ちにさせてくれる、愛おしい存在。それを確信しているのに、目の前の男が誰なのかわからない。視界もはっきりしない。拓海はもう一度、目を擦る。その瞬間――。  拓海……、ごめんね……。  また。声がして、男が俯き、去って行った。さっきまでぼんやりしていたのに、今、寂しそうな背中だけが、はっきりと見えている。拓海は慌てて駆け出すが、どうしたことか、足がうまく動かない。寂しそうな背中がどんどん遠くなっていく。 「尚央……、尚央……っ!」  焦って名前を呼んだ、その時――。拓海は白い天井に向かって、声を上げていた。ふと微かに聞こえてくるウグイスの鳴き声に安堵する。この季節にしては、随分とたどたどしい鳴き声だ。  夢……。  時計を見れば、時刻は早朝、六時。すでにブラインドの間から差す日差しが眩しい。拓海はその日差しから逃げるように、寝返りを打って壁を向き、ケータイの画面を確認する。  今日は八月十日……か。今日行けば、明日やっと休みだな……。  ため息を吐いて、何となく思い出す。さっきまで、ひどく嫌な夢を見ていたような気がする。尚央が出てきたような、違う誰かだったような、記憶はあいまいだ。ただ、体は随分と汗を掻いていた。布団はたぶん、ベッドの脇にずり落ちているのだろう。ベッドの上にはない。 「うー……、仕事行きたくねー……」  那須美術館は、八月に入ってから客数がかなり増加していた。夏休みシーズンに入ってからは、ある程度の覚悟はしていたものの、連休も取れないまま、混雑はひどくなる一方で、もう体は疲れ果てている。だが、拓海の気分を落ち込ませているのは、仕事の忙しさだけではなかった。  あれから、もう一週間……。尚央……、今日もケータイの電源、入れてないのかな……。  ケータイの通話履歴を確認する。枕に顔を埋める。 「声、聞きたい……」  一週間前――。拓海は夜、仕事を終えると、いつも通りの時間に尚央に電話をかけた。いつからか、仕事が終わるとそうして電話をして、尚央の声を聞くことが当たり前になっていて、忙しい毎日の中で、それだけが楽しみだった。だが、尚央はその夜、ケータイに出なかった。それだけではない。それ以降、彼のケータイは何度かけても繋がらないのだ。  おれ、しつこかった……? でも、尚央だって喜んでくれてたしな……。  毎日の電話は本当に楽しかった。ただ、耳元で優しく響く尚央の声を聞いていると、拓海はどうしても彼に触れたくなって、想いを募らせてしまう。そのうちにあらぬ妄想が止まらなくなるのだ。ベッド上で、艶やかな声で拓海を呼ぶ尚央の表情や、彼の肌。クロゼットの中の浅い息遣い。拓海を求めてくれる彼の温もり――。 「はぁ……。尚央に、触ってほし……」  妄想のせいで、拓海の理性が続くのはほんの十分かそこらだ。尚央の声を聞いているうち、気付けば欲望の塊は、股の間で硬くそそり立ってしまう。そうして、それを自ら扱いてやらなければならなくなる。この手が尚央の手だと、彼が触れてくれているのだと、そう思い込んで、果てるまで慰めてやらなければならなくなる。今だって、起き抜けの状態だが、尚央を想えば、彼の妖艶な笑みが瞼の裏に浮かび、当然のように妄想が始まってしまう。  尚央の手……、大きかったな……。意外と、男っぽくて、だけど、白くて、細くて、すげえ綺麗だった……。   自覚はある。これは悪い癖のようなものだ。だが、不安と寂しさに苛まれて、どうしたって止められない。拓海は目を閉じ、ベッドに仰向けになったまま、ほんの少しだけスウェットをずり下ろす。そうして、下着の中に手を忍ばせていく。その中で熱を持ち、膨らみ始めてしまった自らの肉棒に触れ、探るようにして握ると、そのまま上下に擦った。 「あ……、はぁ……」  夕べもこうして、このベッドの上で、拓海を想い、自らを慰めた。その前の晩も、そのまた前の晩も。仕事があろうとなかろうと、朝だってこの有様だ。尚央を想うと、彼が欲しくなって、衝動を我慢できなくなる。尚央と恋人になってから、拓海はもうずっとこうだった。 「あぁ……、尚央……、尚央……」  好きだよ、尚央――。  自分でも、狂っているとわかっている。けれど、ひどく不安になるのだ。ただでさえ、触れ合うだけでも、キスをするだけでも、拓海は我慢できない。飽きるほど名前を呼んで、抱かれなければ、愛する人の温もりを感じなければ、尚央に愛されている自信は持続してくれない。それなのに、こんなにも遠い。物理的距離に阻まれ、会うことすら難しい。だから、こうして自分を自分で、誤魔化すしかなかった。 「あぁっ、あ……、きもち……」  肉棒ははち切れんばかりに硬さを増していく。拓海は手をぎゅっと握る。繰り返し、上下に扱き、腰が揺れ、体が震え始める。 「あ……、んっ、やば……、尚央、イッちゃいそ……」  閉じた瞼の裏に、尚央が映っている。優しい瞳が少しだけ細くなって、「拓海」と名前を呼んでくれる。髪を撫でて、頬にキスをくれる。「かわいい……」と、耳元で囁いてくれる。 「あぁ……っ、も、イク……、う、あぁ……っ!」  一際高く、掠れ声で喘いだその瞬間。ドクン――ッと、全身が痙攣する。同時に、手の中の肉棒はビクッ、ビクッと震えながら、白濁の体液を吐き出している。手指はどろどろとした体液にまみれていく。   「あ……っ、あぁ……」  恍惚としながら、こんな自分に呆れて、情けないため息が出ていく。体が鉛のように重くなっていく。全くひどい日課だ。拓海はぐったりとしながら、天井を見つめ、しばらくの間、そうして空しい余韻に浸った。  
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