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その日は特に来館客が多く、拓海が昼休みを取れたのは夕方の四時半を過ぎた頃だった。まだ夏の太陽は昼間のように輝いているが、拓海はすっかり疲れ果て、ぐう、ぐうと腹の虫を鳴らし、僅かに残る気力のみでカフェへ向かう。
腹減った……。
「こんちはー……」
「いらっしゃいませ。お疲れ様です、拓海さん」
店内へ入ると、ウェイターの桐生千春がにこやかに迎えてくれた。だが、拓海には笑みを返す余裕すらない。カウンター席へ進み、その一番端の席に着き、ため息を吐く。
「今日は随分とお疲れですね……」
「うん、ちょっとね。疲れちった」
「まぁ、わかりますよ。さっき諒太郎さんが来ましたけど、げっそりしちゃってて、珍しく大人しかったですから」
千春はそう言って肩をすくめた。この美術館に勤務する学芸員、嶋諒太郎は千春の恋人で、とにかくくだらないお喋りが好きな男だった。たとえ接着剤で唇を塞がれてしまったとしても、彼はきっとそう簡単に黙ろうとはしない。それを拓海もよく知っている。何しろ学生時代の話だが、彼とは元恋人だったのだから。
「信じられないと思いますけど、今日はほとんどおしゃべりしないで食べて帰ったんですよ、あの人」
「ふーん……。明日は嵐かな」
放っておけば、数時間は平気で喋っているような男でも、今日ばかりは口を閉ざしてしまうほど、忙しかったということだろう。拓海は改めて、自分の体の疲労感に深く納得させられた。
「まぁ、でも美術館のおかげで、うちも嬉しい悲鳴状態です」
拓海は周囲を見渡し、無言のまま眉を上げる。美術館内は普段、この時間になると客が徐々に退館を始める。この日もそれは同じだったが、ただし。このカフェは別だ。ランチタイムを過ぎてもまだ、休憩がてらお茶を楽しむ客で賑わいを見せている。その大半が、コーヒーや紅茶、ケーキなんかと一緒にお喋りを楽しむご婦人方だった。
まだまだ、引きそうにないな……。
美術館が閉館時間ギリギリになっても、カフェには大勢のお客が残っている、ということはよくある。特に、夏場は日が長いので余計だ。
「大変だねぇ……」
「いえいえ。お客様が増えるのは有難いことですから」
相変わらず、いい子だこと。
「……カルボナーラちょうだい。あとサラダも」
拓海が言うと、千春は水を注いだグラスを拓海の前に差し出してくれ、拓海の耳元に口を寄せた。
「拓海さん。今日、ランチも一応、残しておいたんですけど……」
「え、そうなの?」
「はい。どっちがいいですか?」
「え、じゃあ……、ランチ……」
「承知しました」
千春はゴキゲンな声でそう言うと、厨房に入っていく。その背中を見送り、拓海はグラスに口を付けた。
「はぁ……」
一息吐いて、ふと壁に飾られている絵が目に入る。そうして、ぼんやりと思い出した。一ヶ月ほど前、北鎌倉の屋敷の庭で、蝶の幼虫を探した日。江ノ島のデート。翌日の尚央の告白。
夢でも見てたんじゃないかって思えてくるな……。
なぜ、急に連絡がつかなくなってしまったのだろう。それの理由を想像するとたちまち不安になって、何も手につかなくなってしまうので、仕事中はなるべく考えないようにしているのだが、ここへ来ると嫌でも思い出してしまう。ここには、尚央の絵が飾られているからだ。
これ……、アオスジアゲハ……だっけか。
それでも、拓海がこのカフェへ足を運ぶのは、尚央に会えずとも、彼の感性に触れたいと思うからだった。
綺麗な色……。
この店のオーナーである、篠崎が尚央の絵を気に入って、買い取りたいのだと言い出したのは、春のこと。はじめは、多忙な篠崎の代わりに売れない画家の個展へ行くなんて、ひどく面倒な用事を頼まれてしまったと思っていたが、どうせ休日も暇をしていることだし、篠崎には日頃から世話になっているのもあって、拓海は渋々、その役を受けた。だが、その面倒な用事が拓海の運命を変えてしまった。
あの時、尚央に再会したのは、運命だったんだ。あれから、おれは変わったし、たぶん、尚央だって……。だから、これで終わるはずない。おれと尚央はちゃんと――……。
「お待たせしました」
悶々としているところに千春がやって来て、拓海の前にランチを差し出す。拓海はハッと我に返った。
「……早いね」
「拓海さんのって言ったら、うちのコックが急いでくれたんですよ。今日はトマトと魚介の冷製パスタと、生ハムの盛り合わせセットです」
「ありがと。珍しく優しいじゃん。明日は間違いなく嵐だねって、コックに伝えて」
「拓海さん……。いい加減に忍さんと仲良くしてくださいよ……」
「おれは仲良しだと思ってるけど」
千春は呆れ顔で眉を上げ、無言でその場を去って行く。このカフェでコックを務める狭山忍は、拓海とは犬猿の仲だった。たぶん、気質的には似ているような気がするのだが、だからこそ合わないのかもしれない。まるで同じ極同士で反発するように、拓海と忍は顔を合わせれば口論になる。ただし、そんな彼でも時々、ちょうどこんな風に優しさを見せてくれることがあった。そのせいで、度々口論をするのに、拓海は彼を嫌いにはなれない。
「……いただきます」
拓海は手を合わせ、遅い昼食にありついた。トマトソースはほどよい酸味と甘みがあって、オリーブやバジルの香りがふうわりと鼻を抜けていく。魚介の旨味と冷たさが相まって、疲れきった体には、嬉しい味だった。
さて、短い休憩時間はあっという間に過ぎて、拓海は一時間後に店を出る。まだまだ沈む気配のない太陽の下、伸びをして、歩き出す。空腹だけは満たされて、足取りには、やや軽さが戻っている。
さーて、もうひと頑張りすっか――……。
だが、その時だった。
「拓海さーん!」
背後で呼ばれ、振り返る。見れば、千春が慌てた様子で駆けてくる。何か忘れ物でもしただろうか――とか、勘定は払ったはずだとか、拓海は考えを巡らせる。
「おれ、払ったよね?」
「え?」
「いや、金、払い忘れたかと思って……」
「あぁ、そういうんじゃありません。拓海さん、大変です」
「大変?」
店で何かあったのだろうか。まさか、あの忍とはいえ、穏やかな篠崎とは阿吽の呼吸だ。どんなに店が忙しくて疲れていても、喧嘩なんかするはずもない。
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