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尚央……、話があるなら、おれがなんだって聞いてあげる。尚央がしてほしいこと、なんだってしてあげる。帰りたくなかったら、ずっとおれの傍にいればいいよ。だから――……。
そうして、心の中で必死に呼びかけながら、那須塩原駅の近くまでやって来た。スピードを落とし、ゆっくりと駅前のロータリーに入る。だが、尚央の姿はどこにもない。拓海は落胆しながら、さらにスピードを落とし、空きスペースを探し始める。――と、その時だった。
「あ……っ!」
視界の隅。バス乗り場に、リュックを背負った背の高い男が立っている。見覚えのある後ろ姿だ。途端にドキドキと心臓がうるさくなる。拓海はロータリーの途中で思わずブレーキを踏んで、男をじっと見つめた。いや、確認するまでもない。慌てて窓を開ける。間違いない。尚央だった。
「尚央……!」
ところが、拓海が尚央を呼んだのと同時に、後方からパァーッと、クラクションが鳴り響いた。声をかき消され、拓海はルームミラー越しに後続車を睨みつけ、仕方なくロータリーの空きスペースに車を停める。すぐに車を降り、バス乗り場へ駆け出す。
「尚央!」
無我夢中で名前を叫んだ。だが、尚央は気付いてくれない。広いバス乗り場の前にできていた人の列が、バスの中に吸い込まれるように、どんどん短くなっていく。尚央はその最後尾にいる。拓海は焦り、必死になって名前を叫ぶ。
「尚央ーーーーーーッ!」
喉が張り裂けそうになるほど張ったその声に、ようやく気付いたのだろう。尚央が顔を上げた。きょろきょろと周囲を見回して、拓海の方に目を向ける。やっと視線がぶつかる。拓海は立ち止まった。気付けば呼吸は苦しくて堪らず、顔からは汗が噴き出していた。
「拓海……」
とても小さな声で、尚央が拓海を呼んだのがわかった。いや、声は聞こえない。けれど、その口元は確かだ。彼は間違いなく、拓海を呼んだ。
「尚央……ッ」
手を振ってみるが、尚央は驚いているのか、ひどく戸惑っているようで、拓海には近づかず、そこに立ち尽くしている。バスの運転手がマイクを通して何か尚央に声をかけているようだが、それにも尚央はかぶりを振っていた。拓海もまた、立ち止まったまま尚央を見つめる。だが。
「尚央……!」
名前を呼んで、両手をめいっぱい広げる。そうして、また叫んだ。
「おいで……!」
その瞬間。尚央が頷き、駆けてくる。同時に、拓海も再び駆け出した。二人の間の距離はどれくらいあっただろう。五十メートルくらいはあったかもしれない。だが、拓海も尚央も、走るのはその半分でよかった。
「拓海……っ」
尚央をしっかり受けとめてあげようと思ったのに、なぜか拓海が抱きとめられるような形になってしまったが、そんなことはどちらでもよかった。拓海は尚央をぎゅっと抱きしめ、彼の首筋に顔を埋める。
あぁ……、尚央の匂いする……。
その瞬間から、拓海の体は多幸感で満たされ、これまで抑え込んできた想いが一気に溢れ出てきた。
「尚央……、やっと会えた……」
「拓海、ごめん……っ、ごめんね……」
「どうしたの、なんで謝るの?」
「だって僕……、拓海の電話、出られなかった……」
「うん。でもそれは、何かワケがあったんでしょ?」
尚央は頷く。それからもう一度、すがるようにして、強く、強く拓海を抱きしめた。
「僕、ちゃんと、拓海と話したくて……。でも、電話はできないから、会いに来たんだ……」
「そっか。ありがとう、会いに来てくれて。すっげえ嬉しい」
「ほんと……? 迷惑じゃない?」
「迷惑なわけないでしょ。もう帰したくないくらいなのに……」
拓海がそう囁くと、尚央はふふ、と嬉しそうに笑った。その笑顔が見たくて、拓海は尚央の体をほんの少しだけ離し、彼を見つめる。僅かに潤んだ瞳と目が合って、拓海もまた微笑んだ。
はー……、やっぱ尚央、最っ高に可愛い……。
「……おれさ、尚央がもし那須へ来たら、話したいことがいっぱいあったんだ。でも本当に会って、尚央のことぎゅってしたら……、嬉しすぎてみんな忘れちゃった」
「えぇ……。また忘れちゃったの? あとで、思い出す?」
「うーん……、どうかなぁ」
不服そうな尚央の頬を指先で撫で、拓海は笑みを零す。「また」と言われ、思い出したのだ。以前も恥ずかしいのを誤魔化そうとして、同じ手を使ったことを。拓海はもう一度尚央を強く抱きしめ、耳元で囁いた。
「おれんなか、尚央でいっぱいになったら、思い出すかもしんない……かな」
拓海は尚央を助手席に乗せ、車を走らせ、自宅マンションへと向かった。途中、どこにも寄り道をせず、那須塩原から黒磯方面へ向かって県道をひた走る。車内は静かなもので、尚央はあまり話をしなかったし、拓海も何か話そうとはしなかった。もちろん、尚央に会えてはしゃぎたくて、もう今にも踊り出してしまいたくなるほど嬉しいし、話したいことも聞きたいこともたくさんある。けれど今は、二人きりの空間で、傍にいられる安心感や多幸感に浸っていたかった。少なくとも、拓海はそうだった。それに、ちょっとでも気を緩めてしまったら、拓海は今、ずっと堪えていた想いを爆発させてしまいそうだった。
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