10.不治の病

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10.不治の病

 奥様は不治の病にかかっていた。アパートから先生のお屋敷へ向かう車の中でそのことを聞いた。 ──あの純粋無垢で無邪気な方が病気。あの美しい方がやがてこの世を去る。  私は助手席で(むせ)び泣いた。ついこの間出会った人だけど、奥様は私にとってすでにとても大きな存在になっていた。私の憧れだった。その方が今とても悲しみに沈んでいると思うと、ほんの一瞬でも奥様に対し疑念を抱いていた自分がひどく冷酷に感じられた。一刻も早く奥様のもとに駆け付け、(ひざまず)いて許しを請いたかった。  フロントガラスを打つ雨粒をワイパーがかき分ける。その上からまた水が流れ落ちてくる。何度かき分けても雨は執拗に流れ落ちてくる。  気象庁は、今年の梅雨は長くなりそうだとの予報を出していた。 「家内は脚の筋肉が衰えて、骨も弱くなって、車椅子を使うこともあったんだ。永吉さんが初めて来たときはたまたま体調の良かった日で、車椅子は使っていなかった。永吉さんが来てくれるようになってから、急に生き生きとしてきてね。車椅子はなるべく使わないように頑張っていたんだ。『病は気から』と言う。あの若さで(やまい)を得て、希望を失ったんだろうなあ。それで病状が一気に進んだ。そこへキミが現れた。キミのことをえらい気に入ってね。生きがいが出来たのか、病状が一時的に回復に向かっているように見えたんだ。でも、やっぱり──病魔には抗えない」  下半身の麻痺がだいぶ進行し、もはや車椅子なしでは生活ができない。完全に麻痺する前に私に会ってしたいことがあるのだと先生は説明してくれた。  先生のさす傘に守られ、飛び石を渡ってゆく。玄関ドアの前でもう一度ハンカチで目元をぬぐった。夜の闇にさあっとオレンジ色の光が漏れてくる。 「スズちゃん、いらっしゃい」 「奥様!」  お屋敷についたとき奥様は車椅子に乗っていた。器用に方向を操作しリビングから出て来た。足が不自由なこと以外は極めて健康そうに見えた。風呂上りと見えて顔色もいい。  しかし先日お邪魔したときは自分の脚で歩いていた奥様が、ベッドで何不自由なく絡み合った奥様が、今は車椅子でないと動けないという現実を目の当たりにした時、悲しくて涙しそうになった。ここで私が泣いたらどうなるのか。湿った雰囲気にしたくはない。梅雨だってまだ明けてないのに。  私は精いっぱい明るい声で挨拶した。最近身の回りで起こった出来事やテレビで見聞きした情報を面白おかしく話しながら、車椅子を押しリビングに向かった。  奥様の髪の毛からはシャンプーの香りが香って来る。浴衣に包まれた身体全体からはほくほくと温気が立ち上ってきた。 「今日、すっごいエロチックな映画見て来たんです」 「あら、素敵なカレシと行ってきたんじゃないの?」 「ちがいますよ。私にカレシなんか……」  私は顔の前でヒラヒラ手を振って否定した。 「スズちゃんにカレシできたら、わたしショックだわ」  奥様は下から私を見上げクスッと笑った。その眼には不安が渦を巻いていた。  奥様の不安は私の疑念に音叉のように共鳴した。──奥様、あなたは本当に先生の配偶者なんですか。あなたは本当は誰なんですか……。 「今日は泊って行ってくださいね」 「はい、そのつもりで来ました」  私の返答にほっと息をついたのは奥様だけではなかった。先生も嬉しそうにうなずいていた。二人の表情を見て、疑念はいったん胸の奥底にしまっておこうと決意した。  奥様の寝室に入ると、先生は書斎に戻って行った。 「今日は一日中私につきっきりだったの。本当に優しい人……。夜ぐらいは解放してさしあげなくちゃ」  奥様は先生の後姿を見送りながら、寂しそうに呟いた。
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