13.奥様の告白

3/4
前へ
/141ページ
次へ
「容姿端麗で頭脳優秀、おまけにスポーツ万能の(たくみ)を慕ってくる女性は多かったわ」  奥様は自分の部屋に私を招くと、さっきまでの激情が嘘のように静まり、淡々と語りだした。今日が雨降りでよかったと思った。雨音は奥様に鎮静効果をもたらしている。   「あれは確か中学生の時なんだけど、大学院帰りの兄と駅で待ち合わせたことがあったの。長身の彼はどこにいてもほかの人より頭一個分高いから、遠くからでもすぐわかる。その日も中学生にできる目いっぱいのおしゃれをして改札口で待っていたのね。ナンパしようと声をかけてくる男たちもあったけど、徹底的に無視してやったわ。だって私には巧がいるんだもん。巧を待っているんだもん」  なぜか今日は奥様の唇に目が行ってしまう。兄への熱い思いがしっとり湿った唇から漏れ出てくる。 「乗客たちの流れに乗って彼がこちらに歩いてくるのが見えた。寄りかかっていたコンクリートの壁をお尻ではじいて、大きく手を振ったわ。私ったら、嬉しさのあまり、子どものようにピョンピョン跳ねてるの。自分の喜びようを見て自分で笑ってしまったけど。巧もすぐに私に気づき手を振り返してきた。改札口を抜けると、彼は人の奔流から脇に逸れ、一緒に改札口を出て来た女性二人と向かい合って話している。口の動きで『どう、いっしょに?』と言っているのがわかったわ。その瞬間、二人の顔がまるで花が咲いたかのように明るく輝いた。私にはわかったわ。あの二人は巧に恋をしているのだと。二人とも巧のファンなのだと」  そういう場面なら私も何度も見ているようなような気がした。大学の構内で。休み時間の講義室で。研究室の前で。今、私と奥様の見ている光景は一致している。 「二人とも美しかった。胸が丸く膨らみ腰がくびれていた。中学生の私がどんなに背伸びしても及ばないほど大人の雰囲気をまとっていた。巧はいつかはきっとああいう大人の女性と結婚するんだなって思った。そしたらね……、胸がきしんで急に泣きたくなってきたの。だって、私、幼稚園の時から巧のお嫁さんになりたかったんだもん。将来の夢は歌手でもピアニストでもない。巧のお嫁さんだったの。そんな夢が今崖っぷちに立たされている。泣いたら負け。今泣いたら自分はあの二人に負けるんだって思えてきた。あの二人の前で妹の特権を生かして巧を独り占めしたくなったの」  先生は二人の大学院生に妹を紹介するからと言って、四人でカフェに入った。四人掛けの席で奥様は先生の隣に座り、二人の大学院生は向かいに座った。 「一人はレモン色のワンピースをまとった清楚系の美人。もう一人はブラウンのサマーセーターに乳房の丸い形を浮かべセクシーさをアピールしている。どちらも男にモテそう。ひょっとしたら巧も少しは関心があるのかもしれないと思った。でもね……、私から見るとふたりとも(はじ)かれていたの」 「(はじ)かれて?」 「そうよ。レモン色の彼女も、ブラウンの彼女も、巧がまとっている雰囲気には合ってない。溶け込んでいない。まるで、水と油。──二人には決定的に不利な条件があったのよ……」 「不利な条件?」と、私は聞き返す。昔話を話してくれるお婆ちゃんに、それからどうなるの、と胸を躍らせるように。 「それは巧の妹ではないこと」  そう言い切った奥様の勝ち誇ったような表情が忘れられない。一生私の記憶に残るだろう。 「私は巧の妹よ。二人に対して圧倒的に有利な立場。顔つきも体つきもそっくり。どこにいても何をしていても溶け合うことができる。お互いのどんなことでも知っている。どんなに甘えてもいい。キスしたって『そんなにお兄さんが好きなんだね』で許されてしまいそう。生まれてからずっと一緒なのよ。ひとつ屋根の下に住んでいるのよ。裸、見られちゃったときもあるし、巧の裸だって見たことある。──私は巧にとって特別なの!」  三人はコーヒーを飲みながら、はじめは大学院の学生たちの変態ぶりや教授の変人ぶりなど、どうでもいい話で盛り上がっていたそうだ。奥様は先生の隣に座ってオレンジジュースをちびちび飲みながら大人しく聞いていた。話題がいつの間にか四人の共通の趣味である音楽の話になる。その時、先生はこれ見よがしに妹の肩に手を回し、彼女のピアノの上手さを褒めだす。才能があるのだとか、ピアノに向かう姿が最高に美しいだとか、ありとあらゆる賛辞を注いでくれたらしい。 「私ね、とっても嬉しくて、巧の肩に寄り掛かるようにして体を密着させたわ。巧も私の横髪に手櫛を通したり、耳たぶを弄んだりしていたの。いつもするように。そういうスキンシップは兄妹の間柄であるからこそできるものじゃない? 向かいに座った二人は巧にそんなことをしてもらえる立場ではない。だって、妹でもないし恋人でもないんだからね。私は二人の羨望のまなざしを一身に受けていたわ」  奥様はこの時ほど先生の妹としての自負心に満たされたことはなかったという。自分は兄の愛を無条件に受ける特別な存在なのだと。兄を独占する資格があるのだという思いで歓喜に浸ったという。 「私ね、小学生のころから男の子には人気があったわ。高校生になったら、何人の男子からコクられたか、数えきれないくらい。でもね、私、誰にも興味がわかなかったわ。私の心を支配していたのはたった一人だったのよ──山崎巧ただ一人……」  恋愛感情の生じる土台には「共通点」があると思う。ナツミと今まで付き合って捨てた何人ものカレシの間にもあるし、マイとカレシの間にもそんなものがある。木ノ下くんとの間にもそんなものを感じる時がある。お互い目立たない者どうし。音楽と映画好きどうし。不器用どうし。生きづらさを感じている者どうし……。  とすると、兄と妹、姉と弟の間の恋愛というのは、完璧な恋愛なのではないだろうか。外見だけでなくDNAレベルでも似た者どうしなのだから。  
/141ページ

最初のコメントを投稿しよう!

40人が本棚に入れています
本棚に追加