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人を避け移動し、今、俺は1人雪山を登っている。
雪はせつせつと降り頻る。
吐く息は白い。
ふと思い立ち、『嘘の世界』を眺めてやろうと歩いているのだ。
『嘘の世界』
ど素人が突然雪山登山なんて、そんな馬鹿な思い付きの契機は一体何だったか。恐らく会社のカレンダーに、威風堂々と写された雪山の写真を目にした時だったろう。
一月。
雪山の区別など付きはしないが多分富士山の写真だ。
雪山、嘘の世界。
小学生の頃、祖父の家に向かう車の中で、親父が唐突に語った事を思い出したのだ。
『昔、雪山で道に迷った事があってな。仕方なく張ったテントも雪で潰れてしまって、死にかけた事があったんだ…』
寡黙というか、家族に全く興味の無い様な親父が道中固く閉じていた口を突然開いたので、俺はどう返事したら良いのかも分からず複雑な気持ちになったのをよく憶えている。
うぅ、だか、あぁ、だか。
俺の曖昧な返事も別に気にしない様で、親父は前を向いたまま。
『俺の若い頃のテントなんて、重いのにてんで弱くてな。崩れたテントと重い雪の中から何とか這いずりだして、参っちまった事があって…』
口下手な親父がもにょもにょと、それでも普段からすれば随分と饒舌に語っている。
クーラーも効かず、窓を開けて下敷きを仰いでいた。
あれは夏休みだったか。本当、何で親父はあんな話をしたのだろう。
『山が、月と雪の照り返しで、すごく明るくて。ああ、時間は夜だったんだが…』
そりゃテント張ってたんだからそうだろう。
そういえばあの時、車におふくろは乗ってなかったな。何でだろう。
『ああ、俺、若い頃、そういえば言ってなかったけど、山登るのが趣味だったんだ』
確か………「いきたくない」なんて、泣いて嫌がったんだったか。
そうだそうだ、思い出して来た。それまで親父に逆らわなかったおふくろが、あの時は何か、凄い剣幕で親父に叫び散らして、物も投げたりして。
親父は、一体何をやらかしたんだろうか?
ともあれ、夫婦喧嘩なんて子供に見られて、もしかしたらバツが悪かったのかも知れないな。
『結婚して辞めたんだけど、それまで月に2回は登っててな。で、なんだ?どこまで話したっけ、ああ、うぅんと、そう、山が雪に覆われてて。見渡す限りの白で。凄くキレイでな。絶景だった。今までみたどんな景色よりも美しくてな』
いや、忘れてしまうもんだな。
あの2人の喧嘩なんて、というかおふくろの怒鳴り声がそもそも、その一回っきりだったのに。そうだ、おふくろがメチャメチャに怒鳴り散らしてて、俺は何だか怖くなって外に逃げ出してしまったんだ。遊びにいく、なんて。
昔の夫婦なんて当然恋愛の末の事じゃないだろうから、おふくろも色々溜まってたんだろうな。
2人とも静かな人だったから傍目には分からなかったけど、本当はあまり良い関係じゃなかったのかも知れない。
『一面、真っ白で。山頂も近くて木もそんなに高くないから、余計に白くて…』
森林限界というヤツだろう。あとこれも聞き齧りの知識だが、山で迷ったら降りるのでなく登れ、なんてのもよく聞く。
今なら何となく分かる。
昼間に迷って、山頂を目指して道を見つけて、正しい道に入って山を降ってたら途中で暗くなり仕方なくテントを張ったと。で、中で寒さを凌いでたらテントが雪で壊れて。
何かそういった流れなのだろう。
ヘタクソだな。親父、話。
今だからこそ、その話を噛み砕く事が出来るが当時の俺には親父が何を言っているのか理解出来ず、やっぱり曖昧な返事を繰り返していたと思う。
『嘘の世界だと思った』
そう、その時も親父は視線は前に向けたまま。
でもそればっかりは、はっきりとそう言った。
『浄不浄、全部白で隠して、雪はキレイでな、ああ、俺しかいなかったから、足跡も無かったんだが。うさぎとかもいなくて、ただただ白くて…』
やっぱり要領を得ないその話。
黙って聞いていた俺は唖然としていたんだ。
だってまさか、『嘘の世界』だなんて。
お父さんどうかしちゃったのかな、なんて。
仕事人間で、メシ、フロ、ネル、しか喋らない堅物が突然女の子みたいな事いったりして。偽物?まさか中身はロボットか?なんて疑って、どちらかといえば平時の方がよっぽどロボットみたいな人だったが。
まあ恐れいったのである。あの親父に詩的なところがあったのだ。
2人が婚姻に至った経緯はついぞ知らないままだが、意外と親父が熱心に口説き落としたのかも知れない。それこそ恐れいるが。
『あれはさ、雪は、その時、俺は気がついたんだ。この世のものとは思えないくらい、美しい景色を、暫く眺めてて。全然な、寒くなかった。俺、雪まみれだったのに』
何であの時、親父は突然に帰郷なんてしたんだろう。
意外と近いだろ?なんて、そう、珍しく少し明るくて、田舎中連れ回されて。
親父なりに、息子とコミュニケーションをとりたかったのかな。
親父と俺は、遊んだのだろうか?
内容なんて全く思い出せないが。
『寒くなくて、ああ、やっぱり嘘の世界だからそうなんだって。そう思ったんだ』
そうそう。
思い出した。
その話を聞いて、その時だ。
親父のヘタクソな昔話が、俺の脳みそにどう刻まれたのか。
それから、多分その時から、俺は何故か『寒い』って感覚がなくなった。
気付いたのは……そう……
それから半年して、親父が亡くなった、その葬式の時。
親戚のおばさんに、そんな格好で外に出るな風邪引くよ、って注意されて。
『寒くないよ?だって嘘の世界だから』
あの時も、雪が降ってたんだ。
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