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しんしんと雪が降り積もる。
俺は黙々と、雪山を登る。
ここは親父が『嘘の世界』と言った山。
俺が寒さを感じなくなった、原因の山。
本当はきっと寒いのだろう。
白色で覆われた路はとても静かで、昔の人は本当によく言ったもんだ、しんしんという表現がとてもよく合っている。
しんしん、しんしん、しんしん……
寒くない。
全く冷気を感じない。
俺は『寒くない』というこの能力を、今まで役に立てた事はなかった。
立てようとした事はある。
寒くないなら丁度良いと、冷凍室の管理をかって出た事がある。
あれは成人前だったか。
冷凍室に入ってみれば確かに寒くない。これは天職かもしれないだなんて、調子にのって棚卸しをしていて、危うく死にかけたのだ。
死にぞこなった原因は、低体温症。
そう、寒くないという事。
感覚しないという事。
寒さを感じない。
俺の能力は、本当にただ、寒さを感じないというそれだけのものだったのだ。
冷凍室で寒さの余り寝こけていた俺は、馬鹿みたいに高額な入院費と引き換えに、寧ろ温度管理を徹底しないといけない身体になってしまった事実を痛感したのだ。
『おまえは男の癖に寒がりでみっともないねぇ』
そういって笑うおふくろの顔を思い出す。
逆なんだよ、とは、何だか悪い気がして言わなかったが。
寒いから温めるのでなくて、寒くないからこそ、俺は寒がりだったんだよ。おふくろ。
決して、言ったりはしなかったけど。
自分の超能力に思いをはせながら、俺は雪山を登る。
冷凍室で死にかけた、あの時。
危うく死にかけたなんて、入院していたあの時に気付いた事。
この能力の、一番有効な運用方法。
あの時、冷凍室で死にかけたあの時。
俺は別に何ともなくって。
ただ、いつの間にか眠っていて。
それは裏を返せば、俺は日本で唯一、安楽死という選択がとれる人間であるという、極論も極論な、しかし確かなその事実に思い至った。
寒い場所に身を投じれば何の苦しみもなく死ぬ事が出来るという、感覚だけが無いという、突き詰めてしまえばただそれだけの為にあるようなその能力。
寒さを感じない。
生きるという事に、生命を存続する事にまるで役立たないその能力。
安らかに死ねる能力。
雪山を歩いている今、やはり俺が寒さを感じる事はない。
寒くないんだ、俺は。
授けられたのか、あるいはもしかしたら、奪われたのか。
どちらでもいい。その帰結を以て俺は今、雪山を登っているのだ。
親父の語った『嘘の世界』を眺めに行くのだ。
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