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おふくろは、とても綺麗な人だったと思う。
容姿の話ではない。顔はどうかな、息子の贔屓目でみてもまあ人並みだったのではないだろうか。ややふくよかで、いわゆる昭和のおばちゃんというような雰囲気。
ともあれ、綺麗というのは見たくれの事ではない。
今の時代にはまるで沿わないだろう。
昭和も初期という時代、きっとそこにしか合わないだろう。
人が沢山死んで、そこから立ちあがろうとする。しかし、なお古い価値観に縛られたままの時代。
そんな時代に顔を上に向け凛と立つ、野花のような精神を持った人だった。
ガチガチに固まった封建制度。凝り固まった男尊女卑の中で、静かに微笑みを絶やさないような強い女性。おふくろはそういう人だった。
親父が早くに死んで、たった1人で俺を育ててくれた。
厭な事なんて沢山あったろう。
全て投げ出したいような気持ちに駆られた事もあったろう。
でも、親父と喧嘩したあの一回っきり、あの時以外でおふくろが大声をあげているのを俺は見た事がない。
いつだって静かに微笑んで、俺を咎める時ですら穏やかで。
まあ俺も反抗したりしなかったからな。中学校在学中も新聞配達とかで朝早かったから、やんちゃしている余裕が無かったのだ。
頭が悪いから進学しないんだなんて絶対に思われたくなくって、俺は家にいる時、家事、食事、睡眠以外はとにかく机に向かっていた。
それにしてもコミュニケーションをとらない親子だったな。多分おふくろは、俺を進学させたかったと思う。
就職、と俺が口にした時、あの時は、少しばかり困ったような顔をして、
『これからは学の時代。勉強、あんた好きじゃないか』
違うな、あれは困ってたんじゃない。どちらかといえば悔しい顔だったんだろう。
でも俺は、もう決めてしまっていたから。
少しでもおふくろを楽にしてやろうなんて、そう思ってて。それでも親子2人して働き詰めで、たまに休日が重なったって会話なんてほとんど無くって。
俺も親父と同じ、メシフロネルの人間だったな。おふくろもその方が楽だったろうから却って良かったのかも知れないが。
働いて働いて、そのおふくろも亡くなって1人だ。まあ今更だし、寂しいとも思わない。
1人が楽。独身でいる事になんの苦痛も感じない。
会社の奴等とキャバクラなんぞに繰り出しても楽しくならないのだ。キラキラした格好のお姉ちゃんに聞いて欲しい事などない。目的がハッキリしている分、風俗の方が健全とすら感じる。とにかく会話したくないのだ、俺は横着だから、急に隣に座った人間と会話するのが面倒で仕方がない。
おふくろより丁度良い女性が居ない。
俺はきっと、世間でいうマザコンというやつなのだろう。
おふくろは静かだった、あれこそが俺の理想といった様な女性である。
耳を覆いたくなるような声を出したりなんてしない。
今迄とにかく静かに暮らして来たのだ。親父も、おふくろも、俺も。今更明るい笑い声の響く家庭など考えられない。ケーケーと煩いのは敵わない。煩いのがとにかく嫌いなのだ。
まあ結果として独身なのだから、マザコンだ何だと誰に文句を言われる筋もない。
煩い人間は煩い人間と連れ合えば良い、俺はゴメンというだけ。
おふくろは、良かったな。
あれを捕まえた親父は、本当に幸運な人だったのだな。
そんな事を考えながら雪道を黙々と登る。
雪を踏み締める時は、もっとシャリシャリというような音を立てるもんだと思っていたが、足元からはモッ、モッ、というような音がする。
くぐもったそんな音が、自分の呼吸音に合わせてただ静かな山に聴こえる。雪が降る音すら聞こえてきそうな静けさだ。
親父の趣味が登山であったのも頷ける。
こういうのはとても良い、すごく好きだ。何だ、もっと早くに来れば良かった。
音を愉しみながら、俺は雪山を登る。
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