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「ひっ……人が死んでる!」
暗闇に包まれたひと気のない路地裏でコーダは一人悲鳴をあげた。平凡な日常を送る男がただゴミを捨てに来ただけなのに、恐ろしい事件に巻き込まれるなんて想像するはずがない。
目の前に落ちている大きな黒い袋から一本の腕が生えていた。小さな街灯に照らされた肌は異様に白く、血の気が感じられない。混乱する頭を落ち着かせ、警察に通報するべきかと考え始めたとき、コーダはふと違和感を覚えた。
袋からはみ出していたのは腕だけではなく、色とりどり、太さも異なる多数の電線だった。
「コマンド――ウェイク・アップ」
コーダは目の前の白い顔を息をのんで見つめた。コイツの修理のために、何日もバイトを休んで時間も金も費やしたのだ。失敗は許されない。
狭いベッドの上に横たわっている華奢な男がゆっくりと瞼を開いた。そのまま静かに上半身を起こし、口を開く。
「はじめまして。私は愛玩用アンドロイド・型式N571Zです。はじめに私の名前を決めてください」
「よしっ!」
拳を握りしめて喝采を叫ぶと、男は「ヨシ、ですか?」と小首を傾げた。コーダは慌てて隣に腰掛ける。
「ごめん、きみの名前はルウだよ」
「ルウ」
繰り返すようにつぶやいた瞬間、ルウの瞳に光が灯ったような気がした。蜂蜜色の緩くウェーブしている髪が昔ルウと呼んで可愛がっていた犬にそっくりだというのが名前の由来だが、少々適当すぎたかもしれない。
「あなたの名前は?」
「俺の名前はコーダ。短い間だけどよろしくな」
「短い間?」
「ああいや……気にしないで」
ルウは言われたとおり、こくんと頷くだけでそれ以上問いかけるようなことはしなかった。代わりに何かを訴えかけるように熱心にコーダを見つめる。コーダはふと思い至ってルウの柔らかな髪を撫でた。ルウは嬉しそうに擦り寄ってくる。
さすが愛玩用だ。
ルウは十年以上前に発売されたアンドロイドだった。当時の技術レベルでは今ほど汎用性のあるアンドロイドを作ることはできず、それぞれの分野で能力が特化したものが多く開発されていった。その中でもルウのような愛玩用は、とにかく愛され可愛がられるためだけに存在する。『愛嬌たっぷり! アナタの友人、家族、恋人としていつまでもそばにいます』というのが売り文句だった。起動コマンドを受けたアンドロイドは卵から生まれた雛鳥のように主を認識し、瞬時に好意を抱いて主が喜ぶ行動をとるように作られている。
コーダはルウの美しい顔を見下ろした。髪と同じ淡い色のまつ毛が白い頬に影を落としている。小さな鼻は少し上向きで、桜色の唇はいかにも柔らかそうだ。コーダと同じ十代後半をイメージして作られたのだろう。
旧式とはいえ、これほどの美形なら高く売れるに違いない。
コーダは機械整備士を目指して学校に通いながら、すでに下町でなんでも修理屋としてバイトをしていた。そのバイト代だけで学費や生活費を工面していて、生活は常に苦しい。だから今までもゴミ捨て場から修理できそうなものを拾って売ることは度々あった。それがまさか、高価なアンドロイドを拾う日が来るとは思いもしなかったのだが。
酷く乱暴に壊されていたことに胸を痛めたものの、少しでも高く売るため、千切れていた腕や腿の皮膚にはなるべくオリジナルに近い素材を取り寄せて接合した。出費がかさんだが、投資として割り切るしかない。幸いにも脳にあたる制御部や筋肉や神経にあたる駆動部は損傷が少なく、簡単な部品交換やプログラミングで起動することができた。
あとは性能チェックのために数日一緒に過ごし、高値をつけてくれる買い手を見つけるだけだ。
「うわっ……ルウ、何してるんだ!」
キッチンから不穏な音と焦げた臭いがして、コーダは慌てて様子を見に行った。
ルウは途方にくれたような表情でコーダを振り返った。人間ならその大きな瞳にじんわりと涙が浮かんでいたに違いない。
ルウの手元には小さなフライパンと黒焦げの何かがあった。卵の殻と砂糖の瓶転がっていることから、甘いフレンチトーストでも作ろうとしたのだろう。それがコーダの好物だからだ。
「ルウ、料理なんてしなくていいんだよ」
「……ごめんなさい」
上目遣いでコーダの様子を窺ってくる。コーダは小さくため息をつき、両腕を広げた。途端にルウは花がほころぶように表情を明るくしてコーダの胸に飛び込んできた。頬をすり寄せ、「コーダ、大好き」と言ってくる。
ルウはコーダが予想していたよりもはるかにポンコツだった。
インターネットに接続することで無限に知識を得ることはできるが、それを実際に活用できるかというのは別の問題のようだ。最新のアンドロイドと比較してルウに搭載されている人工知能は学習能力が低く、特に家事類はからきしだった。そもそも愛でるだけのために生み出されたものなのだからとコーダは期待すらしていないのだが、ルウは出来もしないことを何度でも健気にやりたがる。
まるでその行動によってコーダがうっかり絆されてしまいそうになることを計算しているかのように。
これは愛玩用アンドロイドの生存戦略なのだ、とコーダはルウの華奢な身体を抱えながら心の中で唸った。なぜかはわからないが、ルウはコーダのそばにいるために恋人というポジションを選択したらしい。ルウとして生まれ変わった瞬間にコーダに恋をして、コーダに愛されるための行動をとり続けている。
本来コーダの好みは年上の男だ。巧みに甘い嘘を吐き、身体を重ねるひとときだけでも愛されていると信じさせてくれるから。たとえ目覚めたときに財布の中身とともに姿が消えていたとしても、逆に金だけが残されていたとしても、仕方がないと諦めることができる。
コーダの人生はこういった裏切りの連続だった。生まれて間もなく両親に捨てられ、養母に酷く虐められ、初めての恋人には懸命に貯めた金で別の男と駆け落ちされた。
人間は裏切る。でも、アンドロイドは――ルウは絶対に俺を裏切らない。
そうプログラミングされているのだから。
コーダはルウの顎に指をかけた。視線を合わせるとルウはとろけるような笑みを浮かべる。親指で唇をなぞると、くすぐったいのかぴくりと肩を震わせた。
ルウは拾った時点ですべての記憶や記録が消去されていた。つまり「ルウ」という存在にとってコーダは初めての男となる。コーダの目の前に立つのは、何も知らない純粋で無垢な美しい男だ。
コーダは深いため息とともに首を横に振り、ルウを引きはがした。
「片付けは俺がやるから」
ルウから背を向け、無心にフライパンの焦げを擦る。ルウがどんな表情をしているかなんて、想像したくもなかった。
そしてそれは突然やってきた。
物理的にも精神的にも「一寸先は闇」だった。よりにもよって夕飯を作ろうとしたときに、家のすべてのライフラインが止められたのだ。
いつもギリギリとはいえなんとかやりくりできていたから油断していた。滞納できない学費を払ったばかりだったし、なによりルウの修理のためにバイトを休んだ上に出費がかなり増えてしまったのが原因だった。
幸いにもタブレット端末は充電されていた。端末の光を頼りに灯りになるものをルウと手分けして探し始める。
難航する捜索を遮ったのは軽快な通知音だった。そういえば家賃の催促だろうかと身構える。しかしメッセージの件名を見た瞬間、心臓が大きく跳ねた。
『愛玩用アンドロイドの購入について』
――ルウの買い手が見つかった。しかも期待していたよりもはるかに高い値段を提示してきている。
ルウを売りに出していたことを忘れたことなど一度もなかった。そう遠くない未来にこの日がくることをわかっていた。わかっていたはずなのに、コーダは激しく動揺していた。
何を迷う必要がある?
コーダは小さな光に照らされて不安げな表情を浮かべる白い顔を見つめた。
電気も水道も止められた。家賃も滞納している。学費が払えなくなったら即退学だ。今まで必死に働きながら勉強してきた。その苦労がすべて水の泡になる。高値で売るために最高の素材を使って修理したんだ。今売らないでいつ売るのか?
「コーダ……どうして泣いているの?」
か細い声にハッと我に返った。ルウの手が頬に触れる。人間よりも少し冷たい、けれども柔らかくぴたりと馴染む人工の皮膚。
俺は今、俺を裏切った人間と同じことをしようとしている。ただ自分のためだけにルウを捨てる。
止まらない涙を丸ごと受け止めるように、ルウがコーダをそっと抱きしめた。ルウは黙ったままコーダの背中優しく撫で、しばらくしてぽつりとつぶやいた。
「大丈夫」
コーダが顔を上げると、ルウは何もかもわかっているというように微笑んでいた。
リセットすれば、二人で過ごした日々の記憶はすべて消去される。
そしてルウは別の存在として生まれ変わり、誰かに「初めての恋」をする。コーダに恋をしたように、何度でも。
そうプログラミングされているのだから。
「コマンド」
震える声で言葉を紡ぐ。どのアンドロイドにも起動前にリセット用のワードを設定する必要がある。コーダは誤作動を防ぐために絶対に言わないはずだった言葉を設定していた。
よりによって今、この言葉を言うことになるなんて。
ルウの澄んだ瞳を見つめながらコーダは口を開いた。
「リセット――きみを、愛してる」
※
「ぼくも愛してるよ……コーダ」
「え……なんで?」
記憶が消去されて完全停止すると思っていたルウが、名前を呼んだ。一体何が起こったのかわからない。
ルウは混乱で動けずにいるコーダの手を両手で包み込んだ。
「愛玩用アンドロイドのリセット・コマンドは『愛してる』とか『大好き』っていう言葉は最初から除外ワードに設定されているんだよ。愛玩用になら普通は日常的に使う言葉のはずだからね」
ルウ曰く、メーカー側も誤作動防止のためにいくつかの除外ワードを設定しているらしい。勘と経験に頼って修理をしたため、真面目にマニュアルを読んでいなかった。
「じゃ、じゃあ……ルウの今のリセット・コマンドはなんなの?」
「さあ、自分でリセットできないようにプロテクトされてるから僕にはわからないよ」
嘘か本当かわからない。ルウは今までと変わらず無垢な笑顔を浮かべている。
「なんだ……ハハッ……」
リセットできない。いや、きちんと調べればできるのかもしれないが、いまやリセットするつもりは微塵もなかった。
薄闇の中で無我夢中でルウを抱き寄せる。
「自分勝手でごめん……でも、俺はルウが好きだ。ルウが他の誰かを好きになるなんて嫌なんだ。壊れたって俺が何度でも直すよ。だから……ずっと俺のそばにいてくれないか」
たとえ作り物の愛情だったとしても構わない。期待して傷つきたくないだけの弱い人間のエゴだと言われるだろう。でも誰に何を言われたって、ルウがいてくれればそれでいい。
「何があってもぼくはコーダのそばにいるよ」
ルウの吐息のようなささやきを聞いた瞬間、衝動的に唇を重ねていた。ひんやりとした唇が口づけによって甘く熱を帯びていく。
名残惜しさいっぱいに離れるとルウがくすりと笑った。
「大丈夫」
ルウは確信に満ちた表情で胸を張る。
「ルウはあなたを愛するために生まれたのだから」
(おわり)
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