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AM11:35 あめしたう中で
前触れない雨音。
広くない店内の窓が雨粒に滴るある日。
雨宿りにと、新参のお客様が入ることも稀になった。常連も遠のく、そんな厄介者の雨は過去を思い返してしまう。
あの日、ゴミ溜めのような捨てられた世界。
泥にまみれた桜の召し物、汚いゴミ同然の私。そんな世界から、絹のような光が、柔らかな手が、汚れまみれの私に触れてくれたこだ。
あのまま死んだも同然だったであろう私を救ってくれたのは、実は奥様の方だ。
何やら店のような風貌、私を連れて入るなり『開業記念』の立派な花や『祝・開店』と手書きの垂れ幕。どうやら小さなパーティーの後らしく、喫茶店、には不相応な出前寿司の空がある。何処へ行くかと思えば、奥様は私を隅々まで洗い落とし、鮮やかな桜が新品の召し物に仕立てられた如く、娘のように「可愛いでしょう」とマスターである彼へ私を見せびらかした。
さっきまでとは、別世界に居るようで。
呆気にとられる私を余所に
「ああ……可愛くて、美しい別嬪さんだ」
と堂々と微笑んだ、変わらぬようで若かりし頃。
罪作りな人だ、とつくづくあの日を推敲するように、今日も今日とてマスターの人気は衰え知らず。
女性からは「既婚者と知りたくなかったNo.1」
男性からは「こんな風に歳を重ねたいNo.1」
とにかく今でも私の密かな思い人は、老若男女問わず慕われている。
それが敵わぬ恋慕であっても、だ。
そんな自分の立場というのを、知っているのかそうでないのか。軽い昼食を終えると、彼は黒地に小さな桜の刺繍をワンポイントとした、唯一のエプロンを着こなす。
雨が上がれば、マスターを慕う人達が、自ずと集う憩いの場となる。
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