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PM06:50 ひとやどり
液晶画面という隔たりはあれど
それは単に音声を届けてるだけで
実際は距離という高い壁があると思う。
閉店時間が近くなり始めたと思いきや、マスターはお客が居ない隙に、慣れぬスマホを取り出した。
そして、一言、二言、穏やかに発すると。
何を言ったかは分からない、ここからでも聞こえる怒鳴り声が、誰も居ない店内をひりつかせた。
電話は切れたのだろうか、マスターは画面を見るなり、それは残念そうにしょんぼりとしていた。
自分は、間に入るべき分際では無い。
私も私で肩を落としていると、ことりと、目の前に広がった変わらぬ芳醇。当店オリジナルブレンドに、桜色花弁のシュガーを浮かべた、奥様考案の志向の一杯。
「まだ仕事中ですよ」
「お客は来ないよ。しえ、今日くらい良いだろう?」
二人で休憩だ。そう言って、自身も同じ珈琲……スリジエブレンドを手にしながら。
「そういえば、いつから私は『しえ』になったのですか?」
「妻が君を連れてきたあの日から、ずぅっと」
「お子様に恵まれなかったからって……坊ちゃんが聞いたら、嫉妬してしまいますよ」
「残念、既に怒られた」
物悲しげで、それでいて、気を許している彼だけの感情。奥様にはちょっと悪いけど、歳を重ねグレイヘアな今のマスターの表情は、私しか知らない。
「君は変わらず別嬪だ、しえ」
どきり、と。身の丈に合わず、全身が真っ赤になるようだ。
「焦げ茶のワンピースに覆う
枝桜模様のエプロンは
相変わらず君に似合う。
夜を思わせる黒のボブに
銀色のヘッドドレスが良い塩梅だ
そして何よりーー」
マスターの皺だらけの手が、やさしく私の頬を撫で、そのぬくもりに
「本物の桜が、瞳に咲いている」
こみあげてくる感情を、抑えて
「……口説くなんて、やっぱり罪作りです」
「あはは、妻に怒られるなぁ……君と話して、少しほっとしたよ」
少ししたら起こしてくれ。そう言って、休憩用の椅子に腰掛け、カウンターで眠り始めてしまう。
嗚呼もう、本当に罪作り。
溢れ出る涙がこんなに温かくて、マスターも温かくて、飲み干してしまった珈琲も温かくて、とてもとても美味しくて。
貴方のために奏でていたコーヒーミルは
一度に沢山の幸せを知ってしまったんですよ。
マスター
閉店、過ぎましたね。
鳩時計が七度、鳴きました。
「マスター」
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