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【???eyes】
今まで普通に暮らしてきた。
保育園や小学校の低学年の記憶はない。親や祖父母からネタにされることもあったから、そんなものかと聞き流しながら大まかなイベント事は親が保存してる動画や画像で見たりした。
別に思うところもない。
小学校の高学年や中学生時代は比較的覚えてる方だとは思う。思うけど、そんなに引っかかることもない。
それなりに楽しくやってたし、人並みに嫌な思いもしたし、部活とかそういうのもそれなりにやって、受験勉強も友達と同じ塾へ行って学校の延長みたいに過ごした。
難関校に受かりたいとかそういう思いがあった訳でもないし、親は仕事や自分の趣味に忙しくて思い出したように将来はどうするのかと聞くくらいでそんな圧も強くなかった。
クラスの中には親の期待が重くて苦しんでる奴もいたから、俺は自分の親がそうじゃなくて良かったくらいにしか思わなかった。
高校は家から近い中でそこそこのところを選んだ。理由は帰りにバイトしたいし、友達もそこへ行く奴が多かったから。それだけ。
それでもやっぱりそれなりに楽しいし、気の合わない奴が居たりとかそういうことはあっても死ぬほど嫌な思いはしないで卒業した。
このくらいだったかな、祖父母が相次いで亡くなった。
俺は祖父母にとっては親戚中で初めての孫で、しかも長男ひとりっ子だから特に可愛がってもらってたから二人が亡くなったのは悲しかったことは覚えてる。
なんで亡くなったのかは覚えてないけど、警察とか無関係だったから病気かな。
大学もそこそこ名の知れた私立へ入学して、普通に楽しく過ごして、それなりに頑張って大人なら一度くらいは名前を聞いたことがあるような会社へ就職した。
入社式へ出席して、大量のスーツの背中を眺めながらこれから俺もこのスーツの一員か。ってげんなりしたけど、それだけ。
勤めてしまえばやることも沢山あるし、叱咤激励の皮を被った八つ当たりも日常茶飯事でこれなら別の会社へ行けばよかったと思いながらも、やりたいことも無いし辞めて不安定な状態になるのも嫌だからなんとなく続けてた。
メディアでよく見る『やりがい』っていうフレーズがよくわからなかったけど、皆よくわかってないから耳障り良くあれを使うんだろうなって思った。
社会人三年目の春、あの人に出会った。
前の週に彼女にフラれて、金曜日に友達と彼女の愚痴を肴にして飲んだ。日曜日は滅多にしない二日酔いで気持ち悪くて一日中ゴロゴロして過ごしたせいで部屋の片付けとかをし損ねて、しかも冷蔵庫も空っぽで月曜の朝からげんなりしていた。
おまけにゴミを出し忘れた。
家に帰ったら何よりも先に玄関に出し忘れたゴミ袋が迎えてくれる。
気分が悪い。
彼女といっても好きだと言うから付き合っただけで、付き合ってから一ヶ月も経たずに結婚を仄めかしてきて、大して好みでもないのに面倒臭くなってきていた頃合だったから別れたことは別に構わないんだけど。寧ろ面倒な別れ話をこっちからしないで済んだのはラッキーだった。結婚くらいは好意のある相手としたい。
今まで好きになった相手はいたけど四六時中一緒にいたい相手はいなかったし、長く付き合ってても彼女の話っていうのは総じて途中から話が長くてつまんねーなって、聞いていてだるくなってきてしまってばかりだったから、たぶん相性が悪かったんだろう。
「おはようございます」
少し高い声で声を掛けられてぼーっとしてた頭が回転を始めた。
声のした方へ視線を向ければ、目線の少し下から俺を見上げてる人物が目に入って挨拶をするような間柄だったっけ?って黙ってしまった。
「何階ですか?」
「あ、十二階をお願いします」
彼は挨拶をしたくてしたんじゃなくて、俺が重だるい足を引き摺ってエレベーターへ向かってきたから開けていてくれただけらしかった。やけに長く開いてるな、とは思ったけど気にしてなかった。
乗り込んだまま動かない俺に、パネルの前に立っていた彼は行先階数を尋ねてくれたらしい。
「あったかくなってきて良かったですよねぇ」
にっこり笑って話しかけられて、はぁ、とか気の抜けた返事しか返せなかった。
右目が隠れるくらい長い栗色の前髪とは対照的に左側の前髪は短い。黒縁メガネの向こうの瞳は大きくて、黒いマスクをつけてるけどその下が微笑んでるのが雰囲気でわかる。
「あ、俺ここなんで。失礼しますねぇ」
「あー、はい」
彼は一つ下の階で降りていった。
残されたエレベーターにはふんわりと駄菓子みたいな香りがして、つい【閉】ボタンを押さずにその背中を見送ってしまった。
昼飯の時にたまたま入った店で彼を見かけた。
彼は『勝田』と呼ばれていて、マスクに隠されていた口元はやっぱり笑っていた。
同じ会社の連中と食事してる話し方がやたらとおっとりしてて、他の奴の話を楽しそうに聞いては和やかなムードを振りまいている。
一人で食べてる俺はといえば、スマホ片手に目の前の皿を空にすることに集中しているだけ。楽しくもなんともない。皆そんなもんだろう。
先にあっちが席を立って、俺の目の前を通りかかった彼は俺と目が合った。別によくある感じに。
「あ……」
にこっと笑ってぺこりと頭を下げて出ていくのに頭を下げ返した俺はなんとなく見送ってしまった。
家に帰りついた時にはゴミのことなんて忘れてて、足で端へずらして部屋へ入る。
別にどうってこともないけど、彼の笑顔が頭をよぎった。
男相手にときめきも何も無いし、ときめきってなんだかよくわからない。
わからないけど、あの『勝田さん』の笑顔が頭を過ぎる。
「マジで?」
にっこり笑うと多分可愛い。あのマスク邪魔だな、とかそんなことを考えて、無い無い無いって頭を振った。
彼女と別れたばっかりだから変な感じになってるだけ。
だって男だぞ?
勝田さんとは同じ電車で最寄り駅に着く。
あのマスクは花粉症だからしているらしくて、花粉の季節を過ぎた頃には笑顔で挨拶をしてくれるようになった。
自分でもおかしいとは思ってるし、なんで彼と少しでも話がしたいのかはわからない。わからないけど、改札を抜けて会社へ向かって歩いていく後ろ姿を見つけてなんとなく後ろ姿を追いかけることが日課になった。
追い掛けて、彼が乗るエレベーターへ少し遅れて乗り込む。
人の多いビルだ。タイミングが少しズレると同じエレベーターには乗れないけど、運良く二人になれれば彼は挨拶と一緒に簡単な世間話をしてくれる。
俺のことをどこの誰と認識しているわけじゃないのは何となくわかってるけど、それでもいつもにこにこと笑って話しかけられるのは悪い気はしなかった。
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