僕が潜水士免許を取らない理由

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 海で死んだ者の幽霊は海水に憑く。  そんな当たり前の事に気づいたのは、水族館の清掃バイトを始めてからだった。  最近では100%人工海水の施設もあるらしいが、まだまだ天然の海水を汲み上げて使うのが主流だ。海水で満たされた水槽の中には、時々成仏できない幽霊が時々流れ着くらしい。そして彼らは海水が新しい水と入れ替わりで廃棄されるまで、展示水槽の中に閉じ込められる。  開館前の薄暗い通路で、アクリル越しのその存在に初めて気づいたときは叫びそうになったけれど、今ではだいぶ慣れた。 「返しておくれよ、返しておくれよ」  先週までは静かだったサメコーナーの大水槽から声が聞こえてくる。声がする方に目を向けると、古めかしいマークVスーツを着込んだ潜水夫が半狂乱になってアクリルを叩いていた。向かいの壁に飾られた、オンデンザメの液浸標本に向かって、返せ返せと騒いでいる。 「ナ、返しておくれよ。お前が食いちぎった俺の足、返しておくれよ。100年ぶりの再会じゃないか。あれが無いと俺は陸に上がれないじゃないか。 お前は俺の足で一日生き延びたのだろう。今度は俺を助けてくれ。ナ、頼むよ。見ろよこの体を、お前のせいで陸を歩けない、体重を支えられない。水の中でしか自由に動けない体になっちまったよ。まるで魚だ。そっちも鰭を失っていたなら、諦めがついたかもしれないが、こんなの不公平じゃないか。お前は随分白くなったが、五体満足だ。返事をしたらどうなんだ。お前のその口は、俺の足を食いちぎるためだけに付いているものなのか。ええ、おい。 このままじゃ本当に魚になっちまうよ、海を泳いで浜に打ちあがって地べたを這いずって干からびる魚に。嫌だ嫌だ、俺は陸に、家族のもとに帰りたいんだ。歩きたいんだ。歩き方を思い出したいんだ。歩く。そうだ歩くんだ、俺はもう一度。ナ、頼むから返しておくれ。返せ、返せ、俺の足、返せよおおおおお」  聞こえないふりをしながら、僕はアクリルパネルに掃除用のスプレーを吹きかけて、昨日来たお客さんが付けた指紋を拭き取る。目が合わないよう、見えていることを気づかれないよう、不自然じゃない程度に目を逸らしながら。アクリルを拭き終わったら床を掃除して、サメコーナーを出る。潜水夫はその間も騒ぎ続けていた。ほかの水槽の幽霊たちも。囚われの幽霊たちの絶望が旋律となって、建物中を包んでいた。  気が遠くなるような長い間、水となって海中を流れてきた幽霊たちは、ほぼ全員発狂している。どんなに生前海が好きだったとしても。皆アクリルの向こうの、地面に立つ職員やお客さんを見て、自分も陸に帰らせてくれと、毎日毎日泣き叫んでいる。  だから僕は、潜水士の勉強をやめた。
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