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人間は、誰しもが『木枠』を持っていると思う。
それは本当に色んな形をしていて、真四角だったり、丸かったり――持ち主によって姿を変える、不思議な木枠。
「神宮寺さんってさ」
職場でパソコンと睨めっこしていると、隣のデスクに座る先輩に声を掛けられた。
スクエア型のフレーム、色は黒。冒険心の欠片も感じられない堅物眼鏡に、低い位置で一本に結ばれただけの黒髪。化粧は必要最低限で、口紅じゃなくてリップクリーム。眉毛なんてしばらく処理していませんけど、それが何か? と言わんばかりに、主張が強めの濃い眉毛。
リフレッシュが必要だからと、デスクの配置換えが成されたのがほんの1週間前。私はまだ、この先輩――田中優奈のことをよく知らない。知らないなりに、苦手意識だけは順調に育まれている。
果たして彼女は、裏で同僚や上司から女を捨てているなんて揶揄されていることを、どう思っているのだろうか。彼女の『木枠』は一見すると四角四面。だけど本当は極端に尖っていて、歪だと思う。
私は、できるだけ愛想のいい笑みを浮かべて「はい、なんですか」と答えた。
「なんかこう……超絶優秀な、お嬢さまっぽいわよね。品があって、美人で、姿勢も良いし。仕事ができて、人望も厚くて、幼少期は週7で習い事してたイメージ? というか、苗字がもうお嬢さま確定って感じ」
仕事中に手を止めてまで話すことがそれなのか、と思わなくもない。しかし私は小さな笑い声を上げて、「なんですか、それ」とおどけた。
「確かにピアノを習っていましたけど……弾けるのも2、3曲で」
「やっぱりイメージ通りね。2、3曲なんて、謙遜しちゃって」
軽く背中を叩かれて、ハハハと愛想笑いを浮かべる。
弾ける曲が『きらきら星』と『猫ふんじゃった』だとしても、イメージ通りだと言って納得してくれるだろうか。ピアノ教室に入会したものの練習が億劫で、たったの2ヵ月で辞めて楽譜も満足に読めないのだと言っても、幻滅しないのだろうか。
『木枠』は本当に厄介だ。枠に収まるのは意識や自我という不確かな流動体。自分の意志では枠の形すら決められない。
自己評価と他人の評価に大きな違いがあるように、己の姿は鏡を通さなければ分からない。木枠は鏡、他人から受けたイメージという名の評価だ。
私の木枠は多角形をしている。気付いた時には八角の八方美人だったが、今ではもう数えきれないほどの角ができてしまって、どうにもできない。その内、何百何千の角が生まれて正円になる日も近い。
他人から押し付けられたイメージを守るのに、誰からも嫌われないよう良い人を演じるのに、いつも必死なのだ。
泥んこ遊びしようものなら「大層な苗字の割に、その辺の子供と変わらない」とがっかりされた。楽だからとジャージにサンダルで出かけようものなら、「その顔でもったいない」と肩を落とされた。
クラシック音楽ばかり聴いているという謎のイメージに反して、アニメソングばかり集めているなんて口が裂けても言えない。日曜朝が私の聖域だというのに。
体に悪そうなコンビニご飯が大好物でも、昼休みには先輩や同僚とランチに行かなければならない。出てきた料理に「キャー」と声を上げて、スマホで写真を撮って、SNSに投稿するのだ。頭の中で打ち込まれるハッシュタグが「♯二千円あったら」「♯コンビニスイーツ」「♯死ぬほど買えた」だとしても、笑顔を絶やさない。
神宮寺優奈ならこうする、これはやらない――他人の評価とイメージで雁字搦めにされた私は、いつの間にか八方美人ではなくて、ただの嘘つきになっていた。
新たな角を付け加えられた木枠に、違うと声を上げるタイミングは幾度もあった。しかし、人から受け取った枠の中を完璧に泳ぎ切るのは、存外気持ちが良かった。嘘をついているという罪の意識は萎んでいって、いつしか他人の勝手なイメージ通りの人物を演じられる、己のスペックの高さに酔いしれたのだ。
「可愛い後輩が隣の席になって、嬉しいなあ……デパコスやお洒落なレストランも詳しそう、オススメがあったら教えてね」
私と全く同じ名前をもつ田中先輩は、悪戯っぽく笑った。どうせ勧めたところで、デパコスなんて無駄なものを買わないことは分かり切っている。やたらと高い値段のレストランだって、私にとってはイメージを守るための武器だが、この人にとってはコスパの悪い何かだ。そもそも本気なら、まずは眉毛の処理をするところから始めなければ。
「田中がデパコスなんて、豚に真珠ってヤツじゃないか」
「その発言、何種類ものハラスメントが絡んでるから、今のご時世辞めておいた方が賢明よ?」
斜め前のデスクに座る男性の先輩が、無礼な態度で会話に乱入してきた。この男はいつも、お呼びでないのに割り込んでくる。彼とのやりとりも含めて、私は田中先輩が苦手なのだ。
「優奈ちゃんみたいな美人と田中が隣り合って歩いたら、公開処刑になるって! そっちこそ辞めておいた方が賢明だろ?」
ニヤニヤと笑いながら先輩を揶揄する無礼な男。まるで小学校低学年の男児が、好きな女子相手に素直になれずに嫌がらせをするような……30歳を超えているにも関わらず、彼の行動理念は分かりやすい。きっと、彼女を特別な木枠に嵌めようと必死になっているのだろう。不美人だとか、年齢がとか、性格がとか――たったそれだけの材料で、人はいくらでも他人の木枠を変えられる。
私ならば「うん、そうだね」と枠を受け入れるだろう。暗に身の程を知れと言われたならば、多少苛立ってでも物分かりのいい女を演じよう。演じ切ることで初めて、私は私の価値を見出せるのだから。
「周りの目なんて関係なくない? 私の人生だもん、私は私の好きなようにするから、関係ない人は黙って――あ、あと、当たり前みたいに『優奈ちゃん』なんて呼んでるけど、普通にセクハラだし本人に許可は取った方が良いよ」
「……カーッ、可愛くねえ女!」
「だから、アンタの評価なんて私に関係ないんだってば」
何を言われたって心の底からどうでも良さそうに、カラカラと笑う田中先輩。男の先輩は思った反応が得られず、悔しげに顔を歪めたが――しかし目の奥に「そういうお前だからこそ、俺は」みたいな熱い何かを灯していて、鬱陶しいことこの上ない。
これだから、田中先輩は苦手だ。一本芯の通った、とんでもない形の木枠をもつ者。
他人に渡された木枠をことごとく突っぱねて、自分1人の力で枠を広げてしまう。こんなにも地味な姿をしているくせに、枠を泳ぐ流動体は誰よりも澄んだ色をして輝いている。不美人なものか、この人は誰よりも美しく強い精神の持ち主なのだから。
だけど私は、死んでもそんなことは口にしてやらない。
彼女の美しさを認めるのと同時に、私は私の木枠がどれほど醜い形をしているのか――枠の中を泳ぐ流動体がどれほど濁っているか、認めることになるから。
私はもう、折れるか死ぬまで演じる悦びを楽しむしかないのだ。誰よりも歪な木枠の中で。
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