六章 笑い声

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六章 笑い声

私は小学校も五年生となってから、ようやく学校に通い出したものだから、学力は相当に低く、先日行われた学力テストでは『小学校の一年生』くらいであると診断された。当然、日々の授業にはついていけず、またそれを理解してくれる仲間もいなかった訳であった。ましてや会話することが出来ない私には先生にも苦しい胸の内を明かすことも出来ずにいた。 つまり私には、学校に通う意味などなかったのであった。 …それでもであった。私には安心出来る家も無ければ(すが)る人様も、学校の外には存在しなかった。故に、無抵抗のまま義務教育という曖昧な川の流れに乗る他なかったのであった。そんな私は、今日もいつものように給食後の昼休みには、自分の席の左側から見える校庭に目をやり、無邪気に走り廻るクラスメイトの姿を頬杖をつきながら呆然と眺め見ていた。 カラカラ~ン… 自分の席の右側から鉛筆が落ちた音が聞こえた。私はそちらに目を向けると啓子がそれを拾っていた。啓子は、おとなしい感じがする子であった。 久し振りの学校に登校したその日、まずは派手な雰囲気ではなく、物静かな雰囲気の人をクラスの中で探した。それは、物静かな人というのは気が優しいというイメージを私が勝手に強く抱いていた為であった。よって、物静かな人は、自分を適度に放っておいてくれて、決して話せない私を責めたりはしないであろうと、そんな目論見(もくろみ)があったのだ。啓子はそんな理由で私の『安心出来そうな人リスト』に入っていた人物ではあったのだ。 啓子は鉛筆を拾い上げると、私の視線に気付いたのか、こちらを見た。私はハッとして思わず頬杖をつくのをやめた。すると啓子はそんな私の何処が滑稽であったのか分からないが、クスリと笑顔を向けた。私は慌てて左側の校庭に目を戻した。 「誠子ちゃんは、みんなと遊ばないの?」 そう言って啓子は近付いてきた。私は緊張のあまり身構えた。すると啓子はそんな私のすぐ右側に立った。 「私もね…みんなと遊ばないの。 だって面白くないんだもん…」 啓子は静かな口調でそう言った。私は、思わず啓子を見つめた。すると啓子は、少々疲れきった表情で校庭を見つめていた。 「誠子ちゃんは話せないんだよね…。 苦しいね…」 啓子は黙って見つめている私に、優しく微笑みを浮かべてそう言ってきた。人馴れしていない私は、そんな言葉に戸惑った。そして私は、つい俯いた。 人様は明るく楽しい人を好み、魅力的で何かに優れた人の周りに吸い寄せられていくものだと思っていた私には、同情してくれる啓子に対して疑問しかなかった。 (何故…私なんかに?) そんな思いであった。 私はこれまで周囲から『厄介者(おにもつ)』として扱われてきた。それは私が人の好みから程遠い人間であり、おまけに何の取り柄も無いからであると…。そのことから、人様から好かれることも認められることも望まずに、なるべく目立たぬように生きていくことが人様にとっても私にとっても良いことなのだと思ってきたのであった。 しかし…であった。そんな思考とは関係なく私の目からは止めどなく涙が流れた。自分でも驚くほどに次から次へと涙が流れた。何故かはわからなかった。しかし啓子にはその涙の理由(わけ)がお見通しのようであった。その証拠に啓子は何も聞かずに、ただ穏やかな笑顔を浮かべて優しい眼差しを向けてくれていたのであった。それにはとても安心を覚えた。そして啓子は優しい空気だけをこの場に残して静かに自分の席へと戻っていったのであった。 次の日から、私は啓子と昼休みを過ごすことになった。絵を描いて見せ合ったり、啓子の話を聞いてお互いに笑い合ったりした。 (あ…私。 笑い声は出るんだ…) …発見であった。私は人前であっても笑い声なら出せる…そう気付いたのであった。 「誠子ちゃんの笑い声って、ケタケタ言ってて面白いね」啓子も驚いた様子で笑いながらそう言った。私はそれが堪らなく嬉しかった。新たな自分を見つけた気がしたからであった。 (笑い声…。 笑うと面白いのかな?私って…) 振り返れば先日も、啓子は私を見てクスリと笑っていた。もしかしたら私は、自分が思っているような陰湿で暗い人間だけではないのかもしれない…。見る人によって私の映り方は様々で、そのどれもが『正真正銘の私』なのかもしれない…。啓子の言葉を通じて、そんな思いになった。 (友達って… いいかも。 学校も… 別に悪くないかも) 私は、明日も学校が楽しみとなった。 それにしても…五年生にもなって今更そんなことを思う私は、精神的にも『小学校の一年生』なのであろうか…。 この日は家庭科の宿題が出ており、その為、ミシンが必要となった。(うち)にはそのようなものはなかったが、啓子の(うち)には足踏み式のミシンがあるということで、学校帰りに啓子の家にお邪魔することになった。啓子の家に着くと啓子の母親は私を手厚く歓迎してくれた。優しい笑顔である啓子の母親が出してくれたジュースやお煎餅が、私を笑顔にしてくれて、啓子の母親の優しい話し方が、私に温もりを与えてくれた。そして立派な足踏み式ミシンが宿題を片付けてくれて、私は感謝の気持ちで胸いっぱいとなったのだ。 その帰りに家の横の草原に寄った。理由は今日の御礼に、啓子へ草原に咲く花の絵をプレゼントしようと思ったからであった。啓子も絵が好きで、よく妖精の絵を描いていた。私はいつも仲良くしてもらっている啓子に、自分が出来る精一杯のこととして、草原に咲く花に妖精を載せた画を渡したかったのであった。 日が暮れるまで、まだ時間はあった。私は啓子の喜ぶ顔の見たさから、嬉嬉(いそいそ)と支度を始めデッサンに取り掛かった。可愛らしいデイジーは(はしゃ)いでいるかのように風に靡いていて、背の高いヒナギクは「友達が出来てよかったな」と言っているかのようにゆっくりと頷いてくれているように見えた。 そんな花花(ともだち)の頭上に、啓子がよく描いている妖精を描き入れると、私はあの時と同じように自然と笑い声を出した。 私にはいつもの草原が、いつも以上に眩しく感じたのであった。 色付けしようとパレットを手の掌に乗せた。すると、先日作った黒色菫(こくしょくすみれ)が薄らと残っていた。私の晴れやかな気持ちは一気に沈み込んだ。そして、あの両親の如何わしい行為が脳裏をよぎった。私はそれを払拭するかのように頭を激しく振った。 ガサ…ガサガサ 嫌な予感がした…。 私の後方から草を掻き分ける音と共に何やら楽しげに話す会話が聞こえた。私は振った頭をそのまま後へとゆっくり向けた。 そこには(あに)がいた。 そしてその背後には、もう一人彼と同じ年頃の男の子がいた。よく見ると私はこの男の子に見覚えがあった。男の子は彼の中学の友人で『梅津』と言った。梅津は、素行こそ悪くはないが、何処と無く『やんちゃ』な雰囲気を漂わしてはいた。そんな梅津が二ヶ月ほど前に彼に誘われて(うち)にやって来た時のことである。私は、誰もいない家で両親が常々使用している電気マッサージ器を使って自慰(オナニー)をしていた。そこに彼と梅津がたまたまやってきてしまい、迂闊にもその行為を見られてしまったのであった。私は二人に見られた瞬間に慌てて行為を止め、一目散に押入れへと身を隠したのであった。 梅津とはそれ以来であった…。 二人は私の存在に気付くと唖然とした様子であった。私もそのような事情から放心状態となった。 口が利けないという事実を差し置いても、彼とは長いことコミュニケーションはなかった。記憶を辿れば三年前になるであろうか…私は、もらったばかりのお菓子を彼に力ずくで奪い取られたことがあった。それがコミュニケーションらしいものの最後であった。私と彼は、そのくらいにお互いがお互いを必要としてはいなかった。それどころかお互いに、随分と前から『敵意』に近い感情を抱いていたような気がした。故にここでの対面は、気まずさ以外の何ものでもなかったのであった。 「お前の妹だよな…」 梅津は私を見ながら小声で彼に尋ねた。 すると彼は平然とした表情で梅津に耳打ちした。私はどうすることも出来ずにそんな二人の様子をただ茫然と眺めた。 暫く耳打ちが続いた。次第に耳打ちをされている梅津の表情は、何とも企んだような嫌な笑顔になっていった。 とてつもなく嫌な予感がした…。 彼の耳打ちが終わり、二人はゆっくりと私に近付いてきた。私は持っていた画板を強く抱き締め身構えた。すると彼は、(せき)を切ったかのように私を仰向けに倒すと私の両腕を掴んで地面に押し付けた。「よし!いけ!」彼がそう叫ぶと、今度は梅津が私の両足を掴んだ。そして私のスカートを勢いよく捲り、そのままパンツも下ろした。私は恐怖のあまり身動き一つ出来なかった。そんな恐怖で(おのの)く私の顔を尻目に、梅津は激しく肩で息をした。「なぁ、ほんとに大丈夫なんだろうな」梅津は、私の両腕を必死に押さえている彼にそう問い掛けた。「…大丈夫だって。こいつ…喋れねぇからさ…」彼は強張った表情でそう答えた。 「そうなんだな…。なら…」 梅津はそう言うと、私の局部に顔を近付けてマジマジと眺め始めた。 「おぉ…すげぇな…」 梅津はそう声を洩らした。私は恐怖と混乱に包まれて頭がパニックになった。すると梅津は、硬直して動けなくなっている私の股を力ずくで抉じ開けた。 「おぉ…なんか、(くせ)ぞ、こいつ」 梅津はそう言って笑った。 「変態だからな、こいつ」 彼もそう言って笑った。 二人の下品な笑い声は、何処か遠くから聞こえてくる音のように感じた。そして段々と遠退いていく意識の中で、絵にした妖精が不意に浮かぶと、その笑い声がいつしか可愛らしい声となり私の傷んだ心を違う場所へと運んでくれた。 気が付くと、二人の姿はもうなかった。 そして仰向けになっている私の目の前には『(しん)の母』である夕焼けがいて、優しいオレンジを放っていた。私はそれに照らされながら自然と涙を流した。そして引きつった笑顔で微かな笑い声をあげて話し掛けたのであった。 「お母さん… 私、汚れてるけど… 笑ったら素敵にみえますか…」
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