八章 雨ニモマケズ

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八章 雨ニモマケズ

習慣とは実に恐ろしいものである。 長いこと繰り返されていた演技が『私の本体』になってしまったようである。せっかく意気込み新たに中学生生活を送ることを決意したが、それが脆くも崩れたのだ。 新学期初日、一人一人が自己紹介をしていく中で、私は何も語ることが出来なかったのであった。 これからはどんな状況でも笑顔を絶やさずにいこうと強く心に決めたはずであった。しかし笑顔は自分でもわかるほどにぎこちなく、唇は辛うじて動くものの一向に声にならなかった。小学校が同じであった人は、そんな私を見慣れているのであろうが、初めて会う人からみれば、何も語らずに、ただヘラヘラとしているそんな様子の私は、異様に映っていたことであろう。 数日後、やはりであった。 私の席の周りには誰もいなかった。 また…あの頃と同じであった。 積極的に周りに話しかけようとは思ってはみたが、そう思えば思うほど頭の中が真っ白になった。そんな状態の自分を眺めみると、幼い頃の明るく積極的だと思っていた自分の姿は、単なる『赤子の本質』に過ぎず、暗く沈んだ私が『私の本体』だったのだと思い知らされたのだ。 そうなると、その後は『いつもの私』であった。 昼休みに、久しぶりに小学校に通い始めたあの時のことを思い出した。一人寂しく過ごしたあの時の昼休み…。私は机に頬杖を付いて楽しそうに(はしゃ)いでいるクラスメイトを今と同じように眺めていた。 ただあの時と違うのは、啓子がこのクラスにはいないということだ。 周りの笑い声が次第に耳に障った。 息苦しくなった私は、何かで気を紛らわそうと真新しい国語の教科書を無造作に捲った。すると偶然にも開いたのは宮沢賢治の『雨ニモマケズ』のページであった。 【雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ 野原ノ松ノ林ノノ 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ 東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ ヒドリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ】 …妙に胸に響いた。 私が『大した人間』ではなくても『華やかな人間』ではなくても、それでも大丈夫なんだと、そう思えたのだ。客観的には謙虚で自己犠牲の精神を持った人に憧れを抱いているという主旨の詩集ではあろうが、それよりも私は、自分自身の心の保ち方に強く感銘を受けたのだ。 笑われようが貶されようが、そんな人様からの評価を気にしない人間…。私もこの詩の最後の言葉と同じように『そういう者になりたい』と思った。 この場は、啓子に代わり宮沢賢治によって救われたのだった。 そんな感謝の気持ちを込めて教科書をゆっくり静かに閉じたのであった。 この日を境に、私は人様を気にしないようにした。 そして、何を言われようがまったく頭に入れないように意識したのだ。 私が美しいと感じ… 好きだと感じ… 嫌だと感じ… 悲しいと感じ… 楽しいと感じ… 嬉しいと感じ… 逃げたいと感じ… してみたいと感じる…。 そんな私の『感性』に没頭していくことを意識したのだ。 よって私はさらに『一人ぽっち』となった。 それは…それがよかったのだ。 月日は流れ、人様を気にしないで過ごす時間の代償は大きかった。 私は人様の感情的な言葉が頭に入らなくなったのであった。 何故ゆえに、人様はそんなに腹を立てるのか…。 私の何が気に食わないのか…。 私に一体どうしろというのか…。 …さっぱりであった。 しかしそれはある意味、昔からそうではあった。 …彼女(はは)のことである。 彼女は常に機嫌が悪く苛立った様子であった。故に、これまではなるべく彼女を刺激しないよう注意して生きてきた。しかし彼女はまるで『言いがかり』でもつけてくるかのように、ほんの些細ことでも私を怒鳴り付けてきた。すると私からすれば『やりようがない』訳であった。そこでそんな彼女の気持ちを少しでも理解しようと、幼い私は彼女が怒り狂う理由について考えたのだ。 残念なことに少しもわからなかった。 わからないものだから結局は『私が悪い』という理不尽な解釈で理解してきたのであった。 しかし最近になり、彼女については苛立つ理由が大層なものではないということにようやく気付いた。 一言で言えば単なる『腹癒せ』である。 更に言えば、彼女が怒りを露にする時は必ず『人を見る』ということであった。大人しく口が利けない、めそめそと泣くだけの私に怒りの矛先を向け、強者には決して向けないということである。 一言で言えば単なる『弱者』である。 なので彼女の言動に関しては、私とは何ら関係がない…。そう結論付けて頭の中に取り込まないようにしたのであったが、周りのことを気にしないで過ごす今では、周りから向けられる怒りの感情全てが、その対象になってしまったようである。 私は知らない…。 だから私は考えられないと…。 …クラスメイトの聡美のことである。 聡美はクラスの中で私に唯一積極的に話かけてくれる子であった。聡美は私なんかと違って色白で背が高く、そして面倒見の良い子であった。 「誠子ちゃんの目って大きくて可愛いよね。なんだか吸い寄せられちゃうな~」聡美は笑顔でそう言って、暗く沈んでいる私に抱き付いてきた。 最初の頃は戸惑っていたが、目が可愛いと言ってもらった嬉しさがあって、嫌な気にはならなかった。しかし正直、聡美のことを何とも思ってはいなかった。故に聡美に気に入られ続けようだの、嫌われたらどうしようだの、そのような心配は全くなかった。 (どうせ… 私のことなんかそのうち飽きるでしょ…) そんな諦めの感情もあった。 そしてそれ以前に、私は『私の好き』に懸命に(こだわ)っていた。よって聡美が離れることに執着がなかったのであった。 しかし、そのような心情が聡美との時間を(かえ)って有意義なものにした。 『ありのままの私』で居れたのだ。 力を入れず神経を尖らすこともなく自然な私で居れた。他人様の前では恐らく初めてのことであった。 率直に楽しかった…。 すると私は、聡美に自分の拘りを遠慮することなく披露した。 ある時は曲を…。 またある時は歌詞を…。 好きな歌手の切り抜きなんかも見せた。 聡美は身を乗り出してそれらに興味を示した。 「それにしても誠子って…みんなと違うのが好きだよね。でも…私も結構、それ好きかも」そう言って聡美は楽しそうに(はしゃ)いでいた。私はそんな聡美の笑顔が嬉しくてたまらなかった。 私はそれからも次から次に自分の『好き』を披露したのだ。 まるで小さい子が母親にするように…。 そう…こうして私は聡美の前では素の自分でいられたのであった。 聡美といると元気になった。そして自然と笑顔になった。気が付けばクラスメイトの深雪も私の傍にいた。 私の周りにこうして人が集まっていることが何処か夢心地であった…。  学年が変わりクラスメイトも変わったが、聡美と深雪は同じクラスとなった。そしてこんな時は『ツキ』があるようで、啓子も同じクラスとなった。啓子とは帰る方向が違うこともあり、この一年は関わりが全くなかった。そこで久しぶりに見る啓子は何処と無く大人びて見えた。再び同じクラスになったことを嬉しくは思ったが、距離感を覚えた私は、少し遠慮気味に啓子へ手を振ってみた。するとそれに気付いた啓子は、あの時と同じ優しい笑顔で応えてくれた。 啓子の笑顔には、やはり安心した。 それからの私は、聡美と深雪と去年まで同じクラスだった数名と一グループのようなものになり、学校では一緒に過ごすようになっていた。啓子はというと、相変わらず常に一人で何かをしていた。勉強なのか、それともイラストや詩をかいているのかはわからなかったが、とにかく周りには目もくれずに一人で過ごしていた。 本当の私はそんな啓子と過ごしたかった。しかし何時(いつ)しか私は、大して好きでもない仲間といることに安らぎを覚えていた。寂しさを感じるよりも『()し』だと思っていたのであった。そんな私の心境を啓子は見透かしているようで、その表れとして啓子は私に目もくれなかった。 それでも私は啓子が好きであった…。 秋口になると早々に修学旅行となった。 私は聡美らグループと行動を共にし、啓子はどのグループからも外れており、転校してきたばかりもあって周りから避けられていた『不良っぽい感じの子』と同じグループにさせられていた。 旅行先でも啓子の表情はいつもと変わりはなかった。いつもの『可もなく不可もなく』といった感じの表情である。きっと啓子のことだから修学旅行に何の期待も希望も抱かずに、ただの学校行事として参加しているに違いなかった。 観光バスの車窓から景色を眺める啓子の表情は、あの時の昼休み…校庭を眺めていたときと同じく何処と無く悲しげであった。 私はというと、聡美が歌うリズムに合わせて楽しげに身体を左右に揺らしながら時折斜め前に座る啓子を眺めた。 そんな啓子をチラチラと盗み見している私は一体何様なのだろう…と自己嫌悪に陥ったのだ。 観光を終え、再びバスに乗り込んだ。するとバスの席に座ると深雪が私の肩を軽く叩いた。「ねぇねぇ誠子…。バスの席変わってよ」深雪は笑顔でそう言った。深雪は私と聡美のはるか後ろに座っていた。私は嫌だった。何故なら後方はバス酔いするし、また荷物が今の席下に置いてあり、態々(わざわざ)動かすのが面倒であったからだ。口が利けない私は、両手を顔の前で合わせて(ごめん)と心で呟いた。すると深雪の顔色が一瞬にして変わった。「私もさ…歌いたいんだけど」深雪は不機嫌そうにそう言った。私はその表情に焦りを覚えた。そしてすでに横に座っている聡美に目をやり助けを求めた。しかし、先ほどまで一緒に歌を楽しんでいた聡美も、まるで人が変わったかのように素っ気ない態度で窓の外を見続けており、このやり取りには興味がないことを表した。私は頭が真っ白になった。一体、私の何が二人の怒りに触れたのであろうか、皆目見当が付かなかった。 (深雪ちゃん…。席、変わるよ) 私は心でそう呟くと、荷物を持って後方の席へと移動した。 そしてこの呟きが、二人に向けた最後の『心葉(ことば)』となった…。 私はまた一人になった。 揺れるバスの後方から二人の笑い声を涙目で聞いていた。 私は知らない…。 だから私は考えられない…。 彼女のときとそんな同じ思考になった。 私は涙目をゆっくりと啓子へと向けた。後方から見る啓子は、バスの背凭(せもた)れに隠れて頭の先しか見えなかった。啓子は相変わらず窓の外を眺めているようだった。 啓子が今の私をどのように感じているのか気になった。 そして啓子にあの時と同じように優しい笑顔で声をかけてもらいたかった。 啓子…。 私はまた人様を気にしないようにした。 そして、何を言われようがまったく頭に入れないように意識したのだ。 私が美しいと感じ… 好きだと感じ… 嫌だと感じ… 悲しいと感じ… 楽しいと感じ… 嬉しいと感じ… 逃げたいと感じ… してみたいと感じる…。 そんな私の『感性』に没頭していくことを意識したのだ。 サウイフモノニ ワタシハナリタイ…。
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