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九章 我が儘
「ねぇちゃん…」弟は泣き腫らした顔で帰ってきたばかりの私に近寄ってきた。
「どうしたの…直…」
私は唯一、声に出して話すことが出来る弟にそう声をかけた。
それにしても久し振りの『声出し』であった。よってその声は、喉に引っ掛かかったような嗄れたものとなった。
その時…私は彼女みたいな声だと思った。
話を聞くと、弟は彼に一方的に殴られたとのことであった。
小学生の弟に高校生の彼が…。
それだけでもう喧嘩なんかではなかった。
単なる…虐待である。
彼はこれまでもよく弟に虐待をしていた。
まだヨチヨチ歩きだった弟の腹部や背中を殴っては大泣きする弟を見て満足そうに微笑んでいたのだ。私は、そんな光景を見ながらも怖くて何もすることが出来ずに、彼が立ち去った後でようやく弟を抱き締めて慰めていた。
故に今、私の目の前に泣き腫らした顔をした弟がいることも、もう見馴れた光景ではあった。私はいつものように弟の肩を抱き、頭を撫でて慰めた。すると弟はゆっくりと顔を上げ、潤んだ眼差しで私を見つめた。
「ねぇちゃん…。
ねぇちゃんは、いつ助けてくれるの?」
弟は声を詰まらせて言った。
…ショックであった。
クラスに入ると、これまで一緒にいた彼女たちから、まずは白い目で見られた。私を完全に無視するようになったのだ。
修学旅行が終わってからずっとこんな感じであった。私は私を横目で見てひそひそと話しながら笑い声をあげている彼女たちの気色の悪い塊を抜けて自分の席へとついた。
…気にしないようにした。
(自分の『好き』に集中すればいいんだ…)
私は下敷きに挟めてある好きなアイドルの切り抜きに触れながらそう自分に言い聞かせた。
カラカラ~ン…
自分の席の右側から鉛筆が落ちた音が聞こえた。私はそちらに目を向けると啓子がそれを拾っていた。
あの時の昼休みと同じであった。となると、私は自然と期待をした。
啓子がまた声をかけてくれるであろうと…。
啓子は鉛筆を拾い上げると、私の視線に気付いたのか、こちらを見た。そしてあの時と同じように、私を見てクスリと笑った。私はその表情に安堵した。そしてあの時と同じようにわざと左側に目を移してみた。すると啓子は、口に手を当ててクスクスと笑いながら私に近付いてきた。
「あの時と同じだね」
啓子は私の右側に立つと優しく微笑みながらそう言った。私は笑顔で返した。
「なんか急に寂しそうね。みんなと喧嘩でもしたの?」啓子は机に両手をついて前屈みになり、心配そうに私の顔を覗き込んで言った。私は啓子の目を暫くじっと見つめた。すると次第に涙が溢れた。啓子は制服のポケットに手を入れると可愛い花柄のハンカチを取り出して黙って私に差し出した。私はゆっくりと手を伸ばしてそれを受け取った。そしてハンカチをゆっくり目に当てた。花柄のハンカチからはほんのりと優しい香りがした。
私は思わず声を上げて泣いた…。
「誠子ちゃん…
笑い声と泣き声は出るんだね…」
啓子はそう言って微笑んだ。
私は啓子には敵わないと思った。啓子には私の全てが見えている…そんな気がしたからだ。思い起こせば啓子は、いつも私を見守ってくれていた。
啓子は私のすることをいちいち眺めてなんかいなかったし、何も言いやしないが、温かく黙って見てくれていたのはわかっていた。そして、私が落ち込んでいるときにはこうして優しく声をかけてくれる…。
だから私も啓子がいつも気になっていたのだと思った。
通じ合うとは…そういうことなんだと。
「啓子…いつもありがとう」
私は感謝の気持ちを初めて声にして啓子に伝えた。
啓子の目から涙が一雫ポタリと落ちた。
そして私は、自分のポケットからハンカチを取り出し、それを啓子に差し出したのであった。
その日の帰り道、私と啓子は学校近くにある公園に立ち寄った。そこで私は声に出して「これまでの私」を話した。
自分が口が利けなくなった経緯や彼女や家族のこと…。
彼女たちとのことや啓子への気持ち…。
弟のことは少し話したが、彼からのレイプについては流石に言えなかった。
啓子は柔らかな風に髪を靡かせながら穏やかな表情でそれらの話を黙って聞いていた。「ありがとうね…話してくれて」啓子はそう言って私の手を握った。「私…初めて人に話できたよ。啓子のおかげ…。本当にありがとう…」そう言って私も啓子の手を握り返した。
気が付けば、もう真っ赤な夕日が目の前にあり、私と啓子をオレンジ色に包み込んだ。カラスの鳴き声が甲高く響き渡っていて、それを耳にしながら私と啓子は暫く黙ってこの瞬間を味わった。
「誠子ちゃん…」啓子が静かに口を開いた。
私はオレンジ色に輝く啓子に目を移した。
「なんで聡美ちゃんたちがあなたを仲間外れにしたか…わかる?」啓子はそう言って私を見つめた。
私は一気に動揺した。そして頭がいつものように真っ白になった。すると啓子は私の顔を覗き込むように優しい笑顔で見つめてきた。
「きっとね…私と同じこと思ったんじゃないかな。
あなたは…『助けてくれない人』だなって」
啓子はそう言った。
「助けて…くれないって…」私は意味がわからずに思わずそう呟いた。
「うん。
どんなに楽しくてもね…
どんなに優しくてもね…
助けてくれない人には人って安心出来ないものだと思うの。
誠子ちゃんは自分のことで精一杯だからね。
だからあなたは結局『我が儘な人』だと思うわ…」
そう話す啓子の表情は変わらずに穏やかななままであった。
逆にそれが怖かった。
私の真っ白な頭の中では、啓子のそんな言葉だけがグルグルと回った。
「きつく聞こえていたらごめんね。でも、誠子ちゃんがそれに気付かないなら、私はあなたと友達にはなれない…。
だって私だって…助けて欲しいんだから」
完全に日が落ちていた。
気が付けば私は一人でベンチに座っていた。私は啓子が帰った後も啓子の言葉で動けないでいた。
我が儘
私が我が儘…。
そう言えば昨日、弟も言っていた。
「ねぇちゃん…。
ねぇちゃんは、いつ助けてくれるの?」と。
私は『助けて欲しい』と言うばかりで、大切に思う人の『助けて欲しい』と言う声が聞こえていなかった。
いや…耳を塞いでいたのだ。
私は人の感情がわからない人間である。
何故なら…
我が儘だからである。
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