十二章 流れるもの

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十二章 流れるもの

昔から『運も実力のうち』なんて言葉があるとおり、私も所詮、人間の幸福なんて運があるかどうかに尽きると思っている。幸運や不運というのは私の努力や私の能力とは何ら関係がなく、また環境も関係がない。きっと人間の中にある『川の流れ』が運んでくるものだと…。 私の中に流れるものとは、時に『血』であったり『思い』であったりするのであろうか。そういった『流れもの』によってきっと私は今を生きている…。 考えれば私が生まれてきたことも、あんな『呑んだくれ』の親から生まれてきたことも、私が決して悪い訳ではなく、もちろん希望した訳でもない。私の中に流れる()の流れが招いた結果なのである。 私は高校生になった…。 学力については、小学生の終わりの頃からすでに諦めており、中学では案の定授業にはついていけず、その上中学三年からは学校へも行っていなかった。そんな私が高校に入れたのは意外なことに私の中に流れる彼女(はは)の血であった…。 彼女は、とにかく外面が良く見栄っ張りな性格であった。家に客人が来れば(ひもじ)い思いをしている家族は其方退(そっちの)けで、出前で寿司なんか取っては気前良くみせ、そして派手派手しい格好で酒を注ぎ、陽気に『女』を振る舞ってみせた。そんな姿は宛ら『娼婦』のようで、こんな人の血が私にも流れているのかと思うと嫌悪感を抱く以前に不思議な気持ちになったのだ。 私が小学六年生の頃の家庭訪問の話である。当時担任であった若い男性教師を彼女は偉く気に入っていた。単純に好みであったようだ。故に彼女にとって家庭訪問はお祭り騒ぎなのであった。彼女はまず訪問の日時を家庭訪問の最終日で、しかも最終時間に調整した。それは訪問に来た教師が齷齪(あくせく)することなく、我が家で食事でも出来るだろうという考えからであった。彼女は口が利けない私のランドセルに教師宛に書いた手紙を押し込んだ。「誠子。忘れずに渡しなさいよ」彼女はそう言って気色の悪い笑顔を浮かべた。手紙の中身は見なくても想像できた。 この日この時間でなければ都合がつかないといった内容が書かれていたに違いない…。 当日は美容室に行き、帰りには酒屋へも立ち寄ったはずだ。そして慣れない拭き掃除をし、いつもの寿司屋に時間指定で出前を頼むと、最後にうっとりとした表情でうなじに香水を振りかけた…。 実に単純な女であった。 教師が家に来ると、まるで『スナックのママ』かのように満面の笑みを浮かべて教師を出迎え、教師の腕に抱きつくようにして用意した席へと誘った。教師は困惑しながらも引き攣った笑顔で何度も頭を下げていた。 私は死ぬほど恥ずかしかった。 それからも彼女はベラベラと喋り続け、教師は時折ハンカチで汗を拭いながら苦笑いを浮かべ俯いていた。私はそんな教師の様子を和室の入り口の柱に寄りかかりながらぼんやりと見つめていた。そして、きっとこの教師は、こんなに騒がしい母親から、よくもこんなに静かな子が生まれてきたものだと思っているに違いないと推測したのだ。 「先生…誠子は学校ではどうなんですか?」 彼女のこの問い掛けに、教師はチャンスとばかりにそれまで俯いていた顔を勢いよく上げた。「それなんですがお母さん…。授業態度は非常に良いのですが…。学力のほうがだいぶ遅れておりまして…」教師はそう言うと口に麦茶を含んだ。それを聞いた彼女は(はしゃ)ぐのをパタリとやめて素の表情となった。そして多少苛立った様子で煙草に火をつけた。私はというと寄り掛かっていた柱から背中を離して『ちゃんと』立った。「先生あれでしょ…算数。家でも言ってたのよ。六年生になるんだから五年生のドリルくらいちゃんとやらないとって…。やっぱりあれですか。四年生レベルですか…」彼女は無理やり笑顔を作ると煙草の煙を天井へ向けて吐いた。「いやいや…。算数はおろか国語も理科もですね。それに…算数と国語は一年生くらいの学力しかありません…」 それから教師は寿司も酒も口にすることなく早々に帰っていった。 娘の私があまりにも出来が悪いことで恥をかかされたプライドの高い彼女は、私を目の前に正座させ、酒を飲みながら怒鳴り散らした。 馬鹿だの知恵遅れだの…。 父親の血を引いただの私の子ではないだの…。 どれもこれもこれまでも散々聞かされてきた言葉だった。故に傷付くというよりも瘡蓋(かさぶた)を剥がされる程度の痛みであった。 程無くして私は近所にある塾に通わされた。 私の為ではなく自分のプライドの為に…。 彼女の叔父が理事を勤める高校に入った。 彼女が叔父に相談し、そういう『運び』になったのだ。 きっと自分の娘が『中卒』ではプライドが許さなかったのであろう。 いずれにしてもである。私の学力ではこの学校へは到底入ることが出来なかったのである。そういった意味では私の中に『流れる川』が、ようやく良い物を『運び』入れたのであろうか。 今度は父の血の流れであった。 …私を弓道へと導いた。 高校に入学した直後に学校内で弓を持った袴姿の女性に目がいった。私はその姿をみて血が騒いだ。 (かっこいい…) そう思った。 それがきっかけとなり弓道部に入った。しかし正しくは、私の中に流れる『武士の血』がそう導いたのであろうと思った。 そして…やはりそういうことであった。 格好だけに惹かれた弓道ではあったが競技そのものが私には向いていた。 つまりは楽しかったのだ。 そして弓道の精神である『瞑想』は、弱々しい私としっかりと向き合わせてくれた。 これまで色の付いている騒がしい世界に翻弄されてきた私は、そこで自分を見失っていた。しかし『瞑想』の世界では色も雑音も無かった。よって自分の『本体』だけがはっきりと映し出された。そこに映し出されている私の本体は、良くも悪くも私自身であった。 『瞑想』の世界には良いことも悪いこともなかった。あるのはその事柄の本質だけである。そしてそれを見つめることこそが冷静になるということだと知ったのだ。 (運が向いてきた…) 率直にそう思った。 昔から『運も実力のうち』なんて言葉があるとおり、私も所詮、人間の幸福なんて運があるかどうかに尽きると思っている。幸運や不運というのは私の努力や私の能力とは何ら関係がなく、また環境も関係がない。きっと人間の中にある『川の流れ』が運んでくるものだと…。
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