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十三章 千栄子
…何か匂ってきた。
私は学校の購買で買った菓子パンを口に入れながら辺りをキョロキョロと見渡した。するとクラスメイトは皆一様に涼しい顔で弁当を食べていた。
そう感じるのは私だけなのであろうか…。そんな思いになった。
「なんかくさっ!」そう言ったのは私の席の後方に座る男子であった。
すると皆一斉に後ろを向いた。
やはり皆、思っていたようだ。
そしてクラスメイトの誰もが一人の女子を見つめていた。
その視線の中心にいたのは千栄子である。
千栄子は、そんな視線なんかは『お構い無し』と言わんばかりに一心不乱に納豆をかき混ぜていた。
(えっ…納豆?)
そう思った私は千栄子を茫然と眺めた。
千栄子は眉間に皺を寄せながら、尚も必死にかき混ぜ続けていた。
(こいつ…すげぇ)
そう思った。
それにしても…臭かった。
千栄子は一見『やんちゃ』そうに見えた。それは態度や言葉使いがそう感じさせたというよりは、見た目の格好からそう感じたのであった。髪の毛はパーマをかけておりスカートも長めで、学校鞄は『ぺちゃんこ』に潰していた。所謂それは『ヤンキースタイル』というものであった。私は元来そのようなタイプの人間は特に苦手で、こちらに向かって歩いてきたら脇道に逸れると決めているほどであった。しかし千栄子には不思議とそんな感情は全く抱かなかった。それはおそらく私が千栄子から発せられている『優しさ』を感じとっていたからであろう。
それには根拠などなかった。単に私がそう感じただけであった。
きっと…優しさとはそういうものであると…。
席替えがあり、千栄子は私の前の席になった。「おう…誠子。よろしく」千栄子は軽い調子でそう声をかけてきた。まずは親しい間柄でもないのに気軽に呼び捨てにしてくるところが流石だと思った。そして声をかけておきながらこちらの様子を伺うこともせずに、手鏡を使って前髪を整えていることもまた流石であった。そう思った私は思わずクスリと微笑んだ。「あ、お前笑ったな」千栄子は前髪を弄りながら横目で私を見てそう言った。すると千栄子自身も自分のしていることが可笑しくなったのであろうか、手鏡を見ながらクスリと微笑んだ。私は以前から興味があった千栄子とこうして向き合えていることに嬉しくなり、自分でもわかるほどの満面の笑みになった。「よし…これでウチとお前は今から友達だ」千栄子は堂々とした様子でそう言い放ち、そして微笑んだ。私は、そんな千栄子の言葉の真意がよくわからずに、ただ茫然となった。千栄子は呆れた様子で手鏡を自分の机の上にひっくり返して置くと、椅子を私の方に向けて座り直した。「いいか誠子。顔見て笑い合えたらもう友達なんだ。わかったか…イヒヒヒ…」千栄子は笑いながらそう言って私の頭を撫でた。私は咄嗟に涙が出た。その単純でわかりやすく、だからこそ真っ直ぐに伝わってくる大きな優しさが嬉しかったからであった。「おい…馬鹿。泣くんじゃないよ。ウチがお前を虐めて泣かしてるみたいじゃんか」千栄子は小声でそう言って眉間に皺を寄せた。
(顔見て笑い合えたら友達か…)
千栄子の言葉を噛み締めた私は、あの日の啓子の笑い顔を、校舎の窓から見える雲一つ無い青空に浮かべたのであった。
千栄子は憎らしくなるほど自由気ままであった。
千栄子の後ろに座る私は、自分勝手な千栄子から消しゴムや蛍光ペンを断りもなく、いきなり取られるのであった。そして厄介なことに、それを返すことなくそのまま自分の机に置き続けるのであった。堪り兼ねた私は、千栄子の肩を軽く叩いて千栄子の気を引き、取られた消しゴムや蛍光ペンを指差した。「あぁ…わりぃわりぃ」千栄子は悪びれた様子なく、軽い調子でそう言うと、それらを私の机に平然と戻すのであった。
毎日こんな調子であった。
また授業中にも関わらず口が利けない私に向かってよく話しかけてきた。
つまり完全に千栄子の独り言状態である。
それなのに、何が楽しいのかペラペラと、まぁよく話しかけてきた。
私はというと、教師に怒られるのではないかと冷や冷やしていた。
「お前ら静かにしろ!」
やはりであった。
(いやいや…私は声出してないし)
そんな私の思いなんかは、周辺の空気と同化してしまって、怒鳴っている教師に気付かれることはなかった。
千栄子は、私が口を利けないことを全く気にしている様子はなかった。何も話せない私と一緒に帰る時も、実に楽しそうに燥ぐのであった。私はというと精々、にこやかにする程度で、千栄子はそんな冷めたような私でも『お構い無し』であった。
ある日の帰り道、千栄子から洋服を買うので付き合うように言われ、街へと出た。目的の店に行く途中でファーストフード店に立ち寄った。もちろん千栄子からの誘いであった。店に入り注文を終え、商品が乗るトレイを手にした私たちは、通りに面した小洒落たテーブルに腰を降ろした。千栄子は早速ハンバーガーを勢いよく口に入れた。「うまっ!やっぱ学校帰りは腹減るよな~」そう話す千栄子は、もう片方の手でジュースを持った。そしてストローを口に入れると今度は喉を鳴らしながら勢いよく飲んだ。私はそんな豪快な千栄子を見て呆気に取られた。「なんだ誠子。お前も食えよ」千栄子は淡々とそう言った。私は促されるままにハンバーガーの包み紙を捲った。すると千栄子はニヤリとした表情でテーブルに身を乗り出した。
「そういえば誠子ってさ…喋れないんだったな」
(えっ…今更かよ)
そう思った。
驚きのあまり、私は茫然と千栄子のニヤケ顔を見つめた。
「誠子…。お前、そんなこと気にするんじゃないよ。お前…その分、めっちゃくちゃかわいいんだからさ。イヒヒヒ…」千栄子はそう言うとジュースを一口飲んだ。私は、いきなりのそんな言葉に恥ずかしくなって俯いた。すると千栄子は、足を組んで横座りしていた姿勢を正すと椅子をしっかりと私に向けた。
「誠子から見るとウチってふざけて見えるでしょ。イヒヒヒ…まぁ、実際ふざけてんだけどさ。
でもね、ウチにも色々とあってさ…」
千栄子はそう話すとテーブルの上で両手を組んで悲しげな笑みを浮かべた。私は『らしくない』千栄子のそんな様子に緊張を覚えた。
「まぁ…誠子になら話してもいいかな。私の秘密…」千栄子は上目遣いでそう呟いた。私は聞くのが怖かったが、友達だと言ってくれた千栄子の為にそれを共有しようと覚悟した。
私は大きく頷いた。
千栄子は安心したかのように優しく微笑んだ。
「実はな…ウチ…」
そう言って千栄子はジュースを一口飲んだ。話すのを躊躇っているのだと思った。私は固唾を飲んだ。
「ウチ…
鼻炎なんだ」
…意味がよくわからなかった。
聞き間違いかとも思った。
まさか鼻炎でこんなに悲しげな空気になるはずがない…そう思ったからである。
千栄子を見ると今も尚、深刻そうにしていた。やはり聞き間違えたのだと思った。もう一度話してもらおうと、私は首を傾げて千栄子に催促した。
「だから鼻炎なんだよ。
び・え・ん」
(おい…きさま)
私は背凭れ寄りかかって、まるで千栄子を無視するかのように無我夢中でジュースを飲みながら、目は横の通り道に向けた。「お前…なにそっぽ向いてんだよ」千栄子は少々むきになって言った。私は冷めた眼差しだけを千栄子に向けた。「あ、お前…鼻炎なめてんな?」千栄子はそう言ってテーブルの上に置いてある私のハンバーガーに手を伸ばした。私は透かさずハンバーガーを手元に引いた。
千栄子はガクリと残念そうにした。
「誠子…。鼻炎ってのはな…お前が思ってるより、しんどいものでな。鼻が詰まってれば頭がボーっとしてきて勉強にならないし…。何を食べたって味しないし…。口は常に開いてるから喉カラカラだし…。
もう生きづらいったらありゃしないわ」そう言って千栄子はジュースを飲んだ。
「お前もな…喋れなくて辛いだろうけど、ウチの鼻炎もなかなかだろ?
お前は口で…
ウチは鼻。
…それだけのことだよ」
千栄子はそう言って微笑んだ。私はそんな千栄子の言葉に様々な衝撃を受けた。それは口が利けないということが、その程度のものであったのかということと、あの自分勝手な千栄子が、もしかして私を励ましてくれているのかということにである。
私は、千栄子の口を衝いて出る、この後の言葉を無意識に待っていた。千栄子はジュースを一気に飲み干した。するとテーブルの上に置かれている私のジュースをジッと見つめた。私はそれを押し出すようにして千栄子に渡した。
千栄子は、涼しい顔で飲んだ。
「なぁ、誠子。昔さ、死んだばあちゃんが言ってたんだけどな。
人の寿命って生まれた時から決まっててな。逆を言えばそこまでは何とか生きようと体がするらしいんだわ。
だから怪我すりゃ体が治そうってするし、病気だってね、ありゃ~医者が治してると見せかけて体の治癒力で治してるってことみたいよ…。
それにあれよ?メンタルがやられてるってことだってね…あれは結局『体』が疲れてるだけのことなんだとさ。だからそんな時はな、なーんも考えず休憩すればいいらしいよ。休憩すりゃー、体が自然と生きていこうと前向きな考えの方に導くんだとさ」
千栄子はそう言いながら自分の袖を捲り上げ、肘の裏にある瘡蓋を触った。
「昨日…転んじゃったよ。
瘡蓋か…これ、治癒力だな。
イヒヒヒ…」
千栄子のそんな笑い声が、私の胸に温かな何かを落とした。
「まぁ、何が言いたいかって言うとさ。
『体』を大切にしろってことだわ。
お前見てるとさ、喋れない自分を恨んでばっかいる気がしてさ。
だってあれよ?喋れなくたって『体』は間違いなく寿命まで導くみてぇだしさ。
だったら黙って自分の『体』の望むまま信じていけばいいんじゃねぇのかね」
私は千栄子のそんな言葉に、辛く苦しかった幼い時の喘息の発作を思い浮かべた。千栄子が言うように『体』が寿命まで黙ってても導くのであれば、あの苦しい夜も生きるために必要な苦しみだったということなのであろうか…。はたまた『体』が人生を生きやすくしようとする為に、あえて喘息発作という現象を起こし、私にこの悪影響を及ぼす家から出ることを促したのであろうか…。
何れにしても、人間は立派な考えや素晴らしい思想で生きているのではなく、ただ単純に『体』を持って『この世』を生きていることだけは事実であった。
「ウチはさ、ばあちゃんにそう教えてもらってからさ、体が望むことには、ちゃんと従っていこうって思ってね。
疲れてたら必ず休憩したりしてさ…。頑張ったところでメンタルやられるだけだし。
そして腹が減れば構わず食って、授業中でも眠たきゃ寝る…。
それが『ウチの人生を生きてる』ってことじゃないかってね…。
…なんてね。イヒヒヒ…」
千栄子はそう言うと、私が手にしているハンバーガーを素早く奪い取った。そして大きな口を開けてハンバーガーにかぶりつくと、満面の笑みを浮かべた。
(啓子…
私、ようやく友達出来たよ)
私は胸に落ちた温かな何かを涙に変えて、通り沿いに咲く一輪の『黒色菫』にそう呟いた。
涙で滲む黒色菫は、これまで私にもたらした不安ではなく、まるで休憩を取っているような安らぎを感じさせた。
私は、勢いよく立ち上がった。無邪気にハンバーガーを食べている千栄子は、驚いた様子で私を見つめた。
「どした…トイレか?」
千栄子が言った。
「千栄子…
洋服見に早く行くよ」
「えっ…?
ちょ…ちょっと誠子待って!」
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