十四章 初恋

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十四章 初恋

『年頃なのだから恋の一つくらい…』と何処か頭にあった気がした。 私は決して彼が初恋の人だとは思わなかった。何故なら私にだってこれまで好きになった人は数人いたし、二人きりになって甘い空気に浸ったことだってあった。 今、袴着姿で凛々しい表情で弓を引く彼を無意識に見ている私は、恋心故に…ではなく、単に暇なのである。 そう…きっと暇なのである。 弓を引く側は、腕の可動域を広げる為に袴着の袖を通さない。よって胸元の半分近くは肌蹴(はだけ)ていた。彼が弓を引いてるその肌蹴た姿は、何とも力強く、そして何とも美しかった。私は誰にも悟られぬように目をチラチラと動かし、そんな彼を見つめていた。 しかしそれは…あくまでも暇だからである。 次は私の番になった。県の代表を決めるこの大会に多くの人が会場に詰め掛けていた。私はこれまで味わったことの無い緊張で押し潰されそうになっていた。弓を持つ手が小刻みに震えた。私は軽く目を閉じ精神を落ち着かせた。 (大丈夫…私は出来ない子だから 大丈夫…私は間が悪い子だから 大丈夫…私はいつも不幸なんだから 大丈夫…大丈夫… 失敗しても何にも傷付かないし 何にも失わないんだから…) 私は自分にそう言い聞かせ、緊張を払い退けようとした。しかし、手の震えが一向に収まらなかった。私は更に目を強く閉じ、再度同じ言葉を繰り返した。 「ほら、誠子!頑張れぃ! 期待してるぞ!」 顧問の加藤の声が耳に刺さった。 (こいつ…なんなの?) …余計に緊張が増した。 黙想しても落ち着かない私は、諦めてゆっくりと目を開けた。すると、観客席からこちらを見ている彼が視界に入った。競技を終えた彼は、緊張から解き放たれたようで、先程私が見た凛々しく真剣な表情ではなく、朗らかで柔らかな表情になっていた。私は無意識に彼のそんな表情を見つめていた。すると彼は、そんな私を見て優しく微笑んだ。私は夢から覚めるかのようにハッとした。慌てた私は、急いで彼から目を逸らして前を見つめた。 「背筋…伸ばしてごらん」 私は、その言葉が聞こえてきた方向に目を向けた。 …そこには優しく微笑み続ける彼がいた。 私は彼が言うように、背筋をピンと伸ばした。そして的を真っ直ぐに見つめると弓を放った。 直後のことはよく覚えてはいなかった。ただ朧気に、顧問の加藤が興奮して私の頭を撫でている姿と、部員たちが飛び跳ねて喜んでいる姿が目に映っていた。 そして彼が満面の笑みを浮かべて私に向けて拍手していた。 私は感謝の意を込めて、彼に向かって頭を下げたのであった。 県の代表者が一列に並んだ。私はその列の左から三番目に立っていた。そして左から四番目には彼がいた。観客席からは声援と拍手が贈られていた。私の右横に立っている彼は観客席に向かって深々と頭を下げていた。 私も彼に連れて深々と頭を下げた。 私はそのままの姿勢で彼を横目で見続けた。「先程は…ありがとうございました」私は思わず彼にそう呟いた。「いえいえ…。僕もよく言われてたから…。緊張している時は姿勢を良くすると和らぐってね。だからきっと何事も姿勢から…なんだろうね」彼は微笑みながら静かにそう言ってゆっくりと頭を上げた。 私も彼に連れてゆっくりと頭を上げた。 『年頃なのだから恋の一つくらい…』と何処か頭にあった気がした。 私は決して彼が初恋の人だとは思わなかった。何故なら私にだってこれまで好きになった人は数人いたし、二人きりになって甘い空気に浸ったことだってあった。 今、袴着姿で誇らしげな表情で観客席を見渡している彼を無意識に見ている私は、恋心故に…ではなく、単に暇なのである。 そう…きっと暇なのである。 彼は『藤原浩三』といった。 県内の進学校に通う二歳上の高校三年生である。 自宅は通う高校から程なくのところにあり、高校へは自転車で通っていた。 暇な私が入手した情報はここまでであった。 クラスメイトに彼と同じ中学だと言う人がいた。私はその人に頼み込み、彼の住所を教えてもらった。 改めて弓道大会の御礼が言いたく、彼の自宅宛に手紙を送ろうと思ったのだ。 他意はなく、あくまでも御礼がしたかっただけである。 ただ、千栄子には否定された。 「何が礼だよ。カッコつけやがって。 お前…それ好きなんだって。 ほんと誠子って頑固だよな~。 いいじゃねぇかよ、好きなら好きって言えばさ。 ったく…お前、外に出て風を浴びて、素直になってこいや」 千栄子は、椅子に座りながら、その椅子の上に右足を乗せて膝を立て、左足で『貧乏揺すり』をしながら気だるそうに顔をしかめてそう言った。 「へぇ~、風ってやつは、ひねくれ者を素直にしてくれるんですか先輩。…初めて聞いたな」私は、半笑い気味に冷めた眼差しでそう返した。 「そりゃ~お前…。ばあちゃんが言ってんだから間違いねぇべ。…イヒヒヒ」千栄子は自信満々にそう言った。 「そうなんだ。なら間違いないね。 ところで千栄子… あんたパンツ、奴らに見られてるよ。…イヒヒヒ」私はそう言って私の後ろにいる男子たちを指差した。 「おい!テメエら! 何見てんだよ!」千栄子は、そう怒鳴りながら男子たちを追っかけ回した。 私は、居間のテーブルに真新しい便箋を置いた。 そして彼に言われた『事の始まりは姿勢から』を実践すべく、きちんと正座した。 私は、しばし真新しい便箋を見つめた。そして、彼に伝えたい言葉を頭で整理した。 その時、窓から優しい風が吹き込み、風鈴の優しい音色が鳴った。 「あ…ばあちゃん…ほんとだ。 私… 彼に会いたいんだ」 私は、彼に特別な感情を抱いていることに、この時ようやく気付いた。 私はそのまま静かにペンを取った。 そしてゆっくりと、真新しい便箋にペン先を落として書き始めた。 思いの丈を…。 後日、家に彼からの返事が届いた。私は丁寧に封筒の頭に鋏を入れた。 そして封筒の中から柔らかな便箋を取り出した。私は、そそくさと『押入れ(へや)』に入り、電気を付けて柔らかな便箋に目を通した。 私は、彼への手紙の中で『場面緘黙症』であることを打ち明けていた。すると彼は柔らかな便箋の中で、話せないなら文通しないかと提案してきた。 涙が出るほど嬉しかった。 そしてその提案の前には、こう書かれていた。 [………人は誰しも、誠子さんと同じではないでしょうか。 話しにくい人もいれば、話しやすい人もいる。僕だってそうです。 だから、それを病気だと言わないほうがいいよ。みんなそんなものなんだから。 誠子さんは、話しにくい人が人より少しだけ多いだけだからね。 大切なのは、あなたが話せることよりも、あなたが話したいと思えることだと、僕は思いますね。 だから、あなたが僕と話したいと伝えてくれたことが本当に嬉しかったです。 手紙を読んで、僕もあなたと、これから話してみたいと思いました。 きっと、僕も暇なのである………なんてね。 ところで、話せないなら、話せるその日まで文通でもしませんか………] 私は、そう…きっと暇なのである。 恋はきっと…暇なのである。
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