三章 黒色菫

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『押入れ』で寝るようになったのは八歳の頃からであった。これまで六畳間が家族全員の寝床となっていたが、私も(あに)も体つきがそこそこ立派になってくると、此処が手狭となった。そこで、私と彼が押入れに布団を敷いて寝ることとなったのだ。下の段に彼、上の段には私であった。私は、自分だけの個室が出来たことに天にも昇る気持ちになった。そしてそこを、まるで部屋のように扱った。布団の頭の方には自分の描いた花の絵を飾り、横にはお気に入りの可愛らしい人形たちで埋め尽くした。喘息の発作が起きたときは、息苦しさのあまり、ここには居れなかったが、それ以外は、ほぼ『押入れ(へや)』に閉じ籠っていた。 この日は、朝からジリジリと日射しが照りつけていた。私は、あまりの暑さから『押入れ』から飛び出し、居間にある扇風機に顔を当てた。すると父がいつもの肌着にステテコ姿で、首に巻いているタオルで顔を拭きながらやってきた。そして、卓袱台(ちゃぶだい)のいつもの場所に腰を下ろすと、用意されている納豆を荒々しくかき混ぜ始めた。「…誠子。今日は何をするんだ」父の問い掛けに、扇風機の前にいる私は父を横目で眺めた。「…はぁ~」扇風機の風のせいで、父の話がよく聞き取れなかった私は、利けない口で精一杯に『吐息(ことば)』を出してその旨を伝えた。そして私は、父の言葉が聞こえるように扇風機の切り替えボタンを『止』にした。私の呆然とした表情を見た父は、苛立った様子で納豆を更に荒々しくかき混ぜた。「だから今日は、何をするんだって聞いてる」先程よりも大きな声で、はっきりとした口調で言うと、私を睨むように見つめた。私は、激しく動揺した。私は、これまでこんな父を見たことがなかった。いつも穏やかで優しく微笑む父であった。それが今はまるで獲物を狙う『(おす)』のようであった。そんな父のただならぬ気配に、私は慌てて絵を描く身振りをして、絵を描きにいくことを伝えた。「そうか…。なら、朝飯(あさめし)が終わったら城に行って、お父さんが好きな城の絵を描いてきてくれないか。なぁ、誠子…」そう話す父の表情は何処と無く緊張しており、笑顔ではあるが無理があった。同じく緊張した私も、ひとまず大きく頷き、一目散に卓袱台につくと、流し込むように勢い良く食べ、朝食を早々に終えた。 その後私は、スケッチブックと絵の具カバンを手に城へと向かった。どういう訳か、彼女が珍しくおにぎりと水筒を持たせてくれたのでリュックサックを背負うことになった。よって、私の格好は(さなが)ら『山下清画伯』のようであった。程なくして目的地の古城に着いた。この古城は、家のすぐそばにあることもあり、幼い頃にはよく父と散歩に来たものだった。この古城を見上げると、その時に繋いだ父の手の大きさと温もりを感じる。そして、この古城自体もまた、父の存在を感じさせるだけの風格があった。そんな私の心情を外して見ても、姫路城や大阪城のようなスケールの大きさこそないが、歴史を感じさせる重厚感はしっかりと残されてはあった。私は、ここに根付いている古城のことはよく知っている。何故なら、この古城は私の『故郷(ルーツ)』であるからだ。古城の資料文書というのがある。それによると、この城を築いた人物は、私の先祖であった。父方は桓武天皇の子孫であり『平将門』は私の血縁に当たった。そんな家系にあることを父はとても誇りとしており、それは娘の私にも脈々と受け継がれていた。 父や私にとって城とは、そういう存在であった。 私は、感慨深げに城をぐるりと見て回ると、気に入った角度の場所にシートを敷いた。そしてそこに座わり、早速デッサンに取り掛かった。大好きな父が私の絵を欲している…その興奮が私の指を動かした。 …昼になった。 デッサンが終わり、私は一息吐いた。相変わらず強い日射しが照り付けてはいるが、満足のいくデッサンのおかげか、頬に当たる風が実に心地好かったためか、爽やかな陽気に感じた。私は彼女に握ってもらったおにぎりを食べた。満足のいくデッサンのおかげか、将又(はたまた)、外の空気のおかげか、いずれにしても美味しく感じた。 お腹も程よくなり、私は色付けする前に、シートに仰向けに寝転んだ。眩しい光に覆われた空には、大きな入道雲が広がっていた。何処からともなく聞こえてくる蝉の声と、子供の無邪気な(はしゃ)ぎ声…。夏を感じるのには充分であった。私は目を閉じ、しばし夏を味わった。
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