三章 黒色菫

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着いた私は、息を切らしながら家の玄関の前に立ち尽くした。走ったせいもあり、汗が滴り落ちた。早く玄関の扉を開けて何事もない日常であることを確認したかったが、同時に、悪い予感が思わせる恐怖心も働いた。私は額の汗を手で拭うと、一つ深呼吸をした。そして、こっそりと中を覗き見ようと六畳間のある窓の方へと向かった。足音を立てずにゆっくりゆっくりと家の裏手を通ると湿った苔やドクダミが生えていた。その時、私は自分の行いの陰湿さを感じた。窓に着くと、しゃがみ込んで少しずつ網戸の下側から中を覗いた。すると、横向きで真っ裸で抱き合う両親が見えた。背の低い扇風機が力なく回り、傍らに布団が無造作に一枚敷かれていた。その上で下側の彼女が何とも力んだ様子で、覆いかぶさる父の筋肉隆々の二の腕を掴んでいた。父は彼女の乳房を(むさ)ぼるように口に含み、一心不乱に顔を動かしていた。彼女はその度に、しゃがれたよがり声をあげた。私は、流れ落ちる汗を拭うのも忘れ、網戸の下側から、その光景を耽溺(たんでき)していた。父は、彼女に何やら言葉をかけているようであった。そして父は、一旦彼女から離れた。すると仰向けになっていた彼女は、立ち膝で構える父に尻を向けて四つん這いになった。父は、彼女の尻を左手で掴むと膣の位置を確認し、右手で自分のものを入れ込んだ。「あぁ~」その瞬間、彼女は悲鳴にも似た大きなよがり声をあげた。父は彼女の尻を両手で鷲掴みにすると激しく突いた。肌と肌が合わさる乾いた音が規則的に鳴り響いた。彼女のよがり声もそれに伴った。私はそれを固唾を飲んで見つめた。それがどんな行為であるのかはよくは分からなかったが、漠然と『いけないこと』なのだと感じることは出来た。私はこの二人が人には見られてはいけない行為をしていて、その様子をこうしてこっそりと覗き見ていることに、言い知れぬ興奮を覚えたのだ。そんなことから、私の頭が朦朧としていると、いつの間にか彼女が私を見ていた。彼女は驚いた表情を見せていた。私は咄嗟に頭を下げたが、目の位置は全く変わりはしなかった。不謹慎にも見たいという気持ちが勝ったのであった。私は先程よりも更に目を見開いて見つめた。彼女は顔を引き攣らせながら恥ずかしげに私を見ていた。そして、やりようがない様子で、そのまま父に攻められ続けていた。しかし、いつまでも視線を外さない私に苛立ってきたのであろうか、私を睨むように見返した。私はそんな彼女を、半ば軽蔑するかのように冷めた視線を向け続けてやった。つまり…羞恥心を味あわせてやったのだ。彼女は父に攻められている快感と、娘から向けられている羞恥心により、まるで、『捨て猫の物乞い』のような目をして私を睨んでいたのであった。 じつに汚い(めす)であった…。 すると(ようや)く、父が私の存在(のぞき)に気付いた。父もまた彼女同様に驚いた表情を浮かべた。しかし父は、やりようがない様子の彼女とは違い、ただちに行為を潔く止めた。そして今にも襲いかからんばかりの勢いで網戸で覗き見る私に迫ってきた。「な、何をしてるんだ!こんなところで!」父のこんな怒鳴り声に、私は網戸から思わず離れた。そして(しお)らしく俯くと黙り込んだ。父からは、行為によるものか、それとも娘に見られた動揺からかはわからないが、激しい息切れが聞こえていた。私はそれを耳にしながら父の大きな存在が段々と崩れていくのを感じた。今日は彼や弟がいないと知って、日中から彼女との行為をしようと企んでいた、そんな(いや)らしさや、その為に私を早く何処かへ追いやろうとした小賢しさや、何といっても、私の敵でもあるこの薄汚い女に欲情を抱いた『裏切り』に、私は幻滅したのであった。しかも、下半身を剥き出しにしているその無様な格好には、威厳もへったくりもなかった。私は、恐る恐る上目遣いで父を見上げた。そんな父の表情からは、いつもの優しい笑顔も、私を包み込んでくれる度量の大きさもなかった。今、私が見ている父は、まさに『(おす)』であった。「誠子…あっちへ行っておけ」父は、上目遣いで泣きそうな表情をしている私に同情を示すかのように、努めて優しい口調でそう言った。 私は、何処に行く当てもなく、ひたすらに家の横にある野原の奥深くへと草木を掻き分けながら進んだ。暫くして、野原の中程にある草木の生えていないちょっとしたスペースに着くと、勢いよくしゃがんだ。そして、額から流れ出る汗と、目から溢れ出る涙を一緒くたにタオルで拭いて、未だ強い光を放つお日様に向かって心で叫んだ。 黒色菫(こくしょくすみれ)は…嫌いであると。
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