四章 自慰

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四章 自慰

あれからというもの、両親の顔をまともに見れなくなった私は、より一層『押入れ(へや)』に(こも)るようになった。それと同時に、より一層、自分の殻に閉じ籠るようにもなった。私はこの真っ暗な『押入れ』の中で、その暗闇に世の中を重ね合わせた。すると、生きていくことに漠然と絶望感や虚無感を抱いた。 父には幻滅し、彼女(はは)のことを心底から軽蔑した私には、もう自分を殺してまで頑張ることに意味を見出だせなくなっていた。 私はこの暗闇で、今回の両親のことを回想した。いつものように思考の始まりを『私が悪い』からにはしてみたが、どうもそれでは納得がいかなかった。まぁ当然と言えば当然であった。私はこれまで、不条理なものとの折り合いのつけ方には、必ずこうしてきたのであった。しかし、この件に関してはそれから始めたところ、酷く抵抗感があったのだ。そうなると、私の中では自然と『怒りにも似た感情』が遠慮することなく暴れようとしていた。 そしてついに私は、これまで我慢していた様々な不条理が許せなくなった。特にあの日みた、両親の如何(いかが)わしい行為は、発狂しそうになるほどであった。そんな私は、布団の上に勢いよく仰向けになった。そして、押入れに設置したライトをつけて、薄いベニヤでできている天井板に目をやった。するとそこに、黒色の染みのような模様があり、私はそれをジッと睨み付けた。 (黒色菫(こくしょくすみれ)…。 …私には染みがそう見える。 …黒色菫… どいつもこいつも…馬鹿にしやがって) 苛立ちが抑えられなくなった私は、仰向けのまま履いていたズボンを足元にずらすと、パンツの中に左手を入れて局部を開いた。そして、右手の中指と薬指で陰核(クリトリス)を軽く擦った。そのうち、擦っている指に強弱をつけたり、中指を膣の中に入れたりもした。次第に息が荒くなってきた。私はこうして、両親のあの如何わしい場面を思い起こしては、その憎しみを興奮に変えて欲望を高めていったのであった。 段々と潤ってくる膣…。 動かす指は更に激しさを増した。身体全体は硬直したが、下半身は小刻みに上下した。 「あっ…あっ…あぁ…くっ…くっ…くく…」 私は絶頂(エクスタシー)をむかえた。 そして布団の上で恍惚とした。 押入れの襖の向こうにいるであろう彼女に分からぬように、荒くなっている息遣いを努めて殺した。顔の周りは火照り、目が虚ろになっているのが自分でもわかった。 …気持ちよかった。 しばらくそんな余韻に浸っていると、不思議とあの『怒りにも似た感情』が一気に収まっていくのを感じた。 思い起こせばこれまでも私は『自慰(オナニー)』をしていた。それは決まって理不尽な扱いを受けた時にしていた。 あれはまだ幼稚園に通っていた年頃であった…。 この日は、正月三が日に当たり、我が家の近くに住む親戚が数人ではあるが集まることになっていた。狭い家だが四畳間と六畳間の間の襖を開けて大広間のようにしてあり、そこに幾つかのテーブルを繋ぎ合わせて並べられていた。それは(さなが)ら大宴会場のような雰囲気で、私は胸を弾ませた。 これから来る親戚の中には、歳の頃がほぼほぼ同じくらいの子供たちもいた。一緒に遊べる嬉しさから舞い上がっていた私は、その子たちの気を引こうと、ビーズで作ったネックレスを首に巻いたり、髪飾りをつけたり、洋服はお気に入りのものを着たりして精一杯の御粧(おめか)しをしたのであった。 いざ親戚が集まり、大人たちは酒が進み、ご機嫌な様子でお互いの近況などを話していた。子供たちはというと、その傍らの僅かな空間に集結して、カルタやボードゲームなどをして楽しんでいた。そんな中で私は、自分が御粧ししていることを自慢したくなり、つい歌を歌った。この頃は声が出ていた私は、歌声にも自信があった。父がよく褒めてくれていたからだ。よって一石二鳥の行動であった。歌い始めるとすぐに皆が私に注目した。口をポカンと開けて見ている子供たちや、お酒の入ったグラスを持ちながら、赤ら顔だけをこちらに向けて見ている大人たちを尻目に、まるでアイドル歌手にでもなったかのように私は歌った。 …そして歌い終えた。 満足であった…。 私は、テレビに出ていたアイドル歌手の真似をして両手を前で合わせて、ゆっくり深々と御辞儀をした。するとパラパラと不揃いな拍手が起きた。「よっ!いいね~誠子ちゃん!」酒の席で一番上機嫌になっている叔父さんが、そんな掛け声をくれた。私はゆっくり顔を上げると、何だか一気に恥ずかしくなり、その場にしゃがんだ。「誠子ちゃんはほんと歌が上手ね~。お顔もかわいいし…歌手になれそうね~」尽かさず叔母さんも、感慨深げにそんな言葉をくれた。しゃがんでいる私は、嬉しいやら恥ずかしいやらで、思わず畳の(へり)を指で(なぞ)った。 「なんか…コイツ変なの」 (あに)であった。彼は、私には全く興味が無いかのように背を向けており、私が指で(なぞ)っている畳の縁の延長線上にミニカーを走らせていた。故に、その言葉は私に向けられたものではないと一瞬感じた。すると、彼は走らせていたミニカーを止めて、ニヤリとした表情を浮かべながら私を見つめた。「コイツ…バッカじゃねぇ~の」彼は私に指を差しながらそう言って(はしゃ)いでみせた。 …私は呼吸が止まった。 「あらら…そんなこと言っちゃだめじゃない。誠子ちゃん、素敵な歌声だったわよ」 そう言って叔母さんは、何処かおっとりとした様子で私の肩を持ってくれた。「駄目よ、恵美ちゃん。そんなこと言ったら…。また調子づいて歌いだすんだからね」私から一番離れた位置に、(もた)れ掛かるように秩序(だらし)なく座っていた彼女がそう言って口を挟んできた。彼女は完全に出来上がっていた。こんな時の彼女は、これまでお構い無しであった。よって私は身構えた。 (今日は…やめて。 お洒落したの…私。 みんなが…いるから… お願い…) 私のこんな願いは、彼女の高笑いによって絶望感へと変わった。 「まったくね…。うるさくてしようがないわ。少しはさ、迷惑かけないように黙ってなさいよ」彼女は、畳に座って打ち(ひし)がれている私に向けて、叫ぶようにそう言った。「そんなこと…。いいじゃないの…ねぇ、誠子ちゃん?きっと素敵な歌手になれるわよ」そう話す叔母さんの顔は苦笑いであった。しかし私には、そんな叔母さんの気遣いも、もはや迷惑であった。余計に彼女に毒を吐き出させることになるからであった。 …私は畳の縁に爪を立てた。 「歌手なんてムリムリ。バカなのよ誠子は。 ほんと…バカだから」 そう言って彼女は、手を叩いて高笑いした。するとその後を追うように、彼は畳を叩いて狂ったように笑い出した。 「ギャハハ… バカ… バカだって! ギャハハ…」 そんな彼の楽しそうな様子を皮切りに、子供たちが一斉に笑い出した。 (…笑っても… いいよ…別に。 だけど… ビーズのネックレスは笑わないでね) その夜に私は、テレビに出ていた濡れ場のシーンを思い出して、初めて自慰をしたのであった。 あの畳の縁の上で思う存分にそうしたのだった。 それは、馬鹿な私にぴったりの夜であった。
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