五章 拠り所

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五章 拠り所

「人には心の『()り所』になる人物が必要です。ましてや、それが幼い子供であれば特に…。 一般的には、それが親になったり兄弟になったり祖父母になったり…。友達や恩師というケースもありますね。場合によってはペットとかも…。いずれにしても人は自分以外の存在に安心したり救われたりして生きているのです。逆に自分の為だけに生きていくことは肉体的には出来ても、精神的にはなかなか出来ないものなんですよ。 あ…拠り所ですか? それは平ったく言えば『頼る人』ってことです。 それが人が人生という長旅を歩き続ける為の休憩所なんです」 そのような人物がいないほうが、かえって自分らしく生きれて良いと感じている私からしたら、随分と暢気(のんき)なことを言うものだと感心させられた。もし、この人が言うように『拠り所』が無いと生きていけないのであれば、今こうして生きている私はよもや『幽霊(おばけ)』ということになるはずであった。 しかしそんな幽霊な私でも、ある人からは『()り所』とされていたのであった。 …弟である。 彼女(はは)から『育児放棄(ネグレスト)』されていた私と弟は、いつも空腹であった。彼女にお腹が空いたと訴えれば決まって『炊飯器にご飯あるから』であった。冷蔵庫には特におかずになるものはなく、ふりかけのようなものも(うち)にはなかった。そのような環境の中で、ご飯があるから勝手に食べろと言われても、料理どころか、おにぎり一つ作れない幼い私と弟にしてみたらどうすることも出来なかった。 まさにそれは(いじ)めであった。 ある日、お腹が空いた幼い私は、何か食べるものがないかと冷蔵庫を(あさ)っていた。すると、萎びたキャベツが冷蔵庫の奥にあった。それを見つけた私はそのキャベツにかぶりついた。美味しいも不味いもなかった。ただ、生きていくために本能の赴くままにかぶりついたのであった。 「ねぇちゃん…。何食ってんの?」 弟であった。 弟は泣きそうな顔で力なく冷蔵庫の前でアヒル座りをしてキャベツを一心不乱にかぶりつく私の肩にそっと手を置いた。私は、キャベツにかぶりつくのを止めた。そしてゆっくりと我に返り、横に立っている弟の泣きそうな顔をジッと見つめた。そして私は、目から大粒の涙を流した。「(なお)も食べる?」私は弟に聞いた。すると弟は笑顔になり、黙って頷いた。この時、おそらくは幼い弟も、このキャベツがだいぶ傷んでいて『人間が食べるもの』ではないことを悟っていたのではないかと思った。その証拠に弟の表情は、一見穏やかではあるが、何処か諦めにも似た悲しい笑顔を浮かべていた。私は余計に涙が溢れた。 幼い私たちは、台所の窓から入ってくる優しい夕焼けのオレンジに、流した涙と小さな身体を染めながら、肩を寄せあってそのキャベツを一枚一枚千切って食べたのであった。 父は、私と弟のこうした惨状を知ることになり、酷く彼女を怒鳴りつけた。すると彼女はその場を『しおらしく』してみせていた。しかし父も流石に、そんな彼女のその場しのぎの芝居は、もうお見通しであった。これまでも幾度となく、こんなやり取りがあり、その度のことであった。半ば呆れている父は、彼女のそんな『病気(せいかく)』についてまでは咎めることはしなかった。その代わりに仕事に出掛ける前には出来るだけ私と弟に日中の弁当を作ってくれたのだ。私と弟は、朝から台所に父が立っているのを見ると跳ね上がって喜んだものであった。私は、父が作る料理を父の横に並んで背伸びをして覗き込んだ。「なぁ誠子。今日は誠子の好きな゛桜でんぶと炒り卵゛だぞ。直と仲良くして食べるんだぞ」父は優しい笑顔でそう言うと私の頭を撫でてくれた。 この時… 私は間違いなく父が大好きであった…。 そしてこの時… 間違いなく父が私の『拠り所』であった…。 あの日は前夜から雪が降り頻り、外は白い銀世界になった朝であった。父はそんな状況を理由に、いつもより早く家を出ることになった。そのようなことから私と弟の弁当は彼女に委ねられることになったのであった。父から強く念押しされていたこともあり、安心した私は彼女が作る久しぶりの弁当に仄かな期待を寄せていた。 私は、お気に入りの雨合羽を着て午前中から近所の子供と雪遊びをした。そして昼近くになり、一緒に遊んでいた子供の母親が、その子を呼びにきた。「そろそろお昼よ…。帰ってらっしゃい」そう言って優しい笑顔を向けた。…羨ましかった。しかし今日こそは母がお昼の用意をして待ってくれていると、そう信じていた。いや…そう信じたかったのであった。 そんな私は悲壮感が漂っていたのであろうか、帰り際におばさんから飴玉を一つもらった…。 「ただいま…」私は呟くようにそう言って玄関に入った。すると勢い良く弟が駆け寄ってきた。そしてその勢いのまま私の胸元に飛び込んできて泣きじゃくった。 「直、どうしたの?」私は泣きじゃくっている弟の頭を撫でながら問いかけた。 「母ちゃんが…自分だけ美味しいの食べててね。僕とねぇちゃんのは無いって!」 …頭にきた。 私は、長靴を蹴り飛ばすように脱ぎ捨てると居間へと入った。すると、晩酌をしながら平然とした様子でテレビを観ている彼女がいた。テーブルには生臭い缶詰とイカの塩辛があった。大きなガラスの灰皿の縁に置かれている吸いかけの煙草からは、煙がモクモクと立ち上ぼり、その中で涼しい顔をしてグラスに口を付けている彼女は『やさぐれた女』の画であった。私はそんな彼女を睨んだ。「あら、ようやく帰ってきたのね。誠子さんが遅いから先にお昼しちゃってたわよ。あなたたちは炊飯器にご飯あるから、それ食べなさいね」 彼女はチラッと私を見た後、すぐにテレビに目を戻してそう言った。 (またこれか…) そう思った。 私が帰ってくるのが遅いから悪いのだと懸命に自分に言い聞かせ自分の中から込み上げてくる『怒りの感情』を(なだ)めた。そして彼女には何も告げることなく居間を出ようと彼女に背を向けた。 「誠子さん…父ちゃんに言うんじゃないよ。言ったところであなたが時間になっても帰ってこないからって話すしね。誠子…言ったらどうなるかぐらい考えなさいよ。もう小学生なんだから」 余裕綽々でそう話す彼女の言葉が私の小さな背中に突き刺さった。私は振り向くことも出来ずに、ただ私を心配そうに眺める弟の肩を抱くようにして立ち去るのみであった。 私は弟を抱き締めながら、家の横の野原に向かった。真っ白になった野原はお日様の光でキラキラと輝いていた。それはまるで野原が泣いているように感じた。すると私も自然と涙が溢れた。そしてお日様を見上げて私もその光で暖めて欲しいと思った。 (お父さんに会いたい… お父さん…抱き締めて) お日様が私の願いを聞いてくれたのか、そんなことを感じて流す涙は何処と無く温かかった。 「ねぇちゃん。お腹空いた」 幼い弟は、私の腕に強くしがみつきながらそう呟いた。私は咄嗟に先程もらった飴玉のことを思い出した。そして雨合羽のポケットに手を入れると飴玉を取り出した。「直、飴玉食べる?」そんな私の言葉に弟はニコリとした。そして、その飴玉を口に入れると再び私の腕に抱き付いた。「みかんの味がする」そう呟いた。私は弟が堪らなく愛しくなり強く抱き締めた。 (あったかいな…) そう思った。 それと同時に、弟にとって私は絶対的な存在であることを感じた。そしてそんな思いは、私の孤独な心をお日様のように温めてくれた。 弟にとって私は『全て』であった。 そうなると人は、責任感を抱くものであると、この時知ったのであった。 人が『拠り所』が無いと生きていけないのであれば、今、私がこうして生きている要因は『拠られ所』があるからなのかもしれない…。
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