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一章 母と彼女
…私はいつだってそうであった。
人様からは何処か面倒くさそうに扱われ、その度に苛立った顔を向けらる…。
それは実の母でさえそのような始末であった。いや、むしろ彼女がその輩の代表者のようなものだ。朝、昼、晩とまぁよくもこんなにきっちりと実の娘を邪険に出来るものだと感心するほどであった。
この日、学校から渡された父兄懇談会のお知らせを、踏ん反りかえってテレビを視ている彼女の鼻の先に突き出した。彼女は案の定、煙たそうに顔をそらして私を横目で睨むように見つめてきた。「あ~もう。今面白いところなのに。なによいきなり」彼女はそう言って苛立つと、勢いよく私の手からお知らせの紙を奪い取った。口が利けない私からしてみたら、人様に接触を図ればなんだって『いきなり』になる。そんな私の状態を知りながらこういう言い方をしてくる彼女の底意地の悪さをまずは痛感するのであった。「こんなことを急に言われたって困るよ。誠子、欠席に○して出しておいてよ」彼女は投げやりにそう言うと手紙を勢いよく私の胸元に突き返してテレビを見続けた。彼女のこんな対応はいつものことであった。今となっては別段の驚きも悲しみもない。あるのは手紙を見せたことの後悔だけであった。私は突き返された手紙を力なく受けとると茫然とそれを見つめた。そして、その手紙をゆっくり折りたたんだ。小さく小さくなった手紙はそのままゴミ箱へと行った。ゴミ箱にある小さく小さくなった手紙を見つめてるとそれがまるで自分の存在そのもののように感じた。
『私はいらないもの』そんな感じがした。そしてこうなったときにいつも考えるのは彼女からそう扱われる理由であった。その考えの始まりは決まって『私が悪い』からであった。私は母であるこの女を嫌なものとして感覚的には認識はしているものの、そのように始めることが、彼女と折り合いをつけるのに滑らかになった。母である彼女が、ここまでして嫌がるほどの存在が私なのだ。私がこの空気の根本の問題であり、むしろそんな私を『飼育』してくれている彼女に薄らとでも感謝するべきだと、このように自分に強く言い聞かせたのであった。
改めてこの思考の始まり方は、私にとって実に重要であった。
『私が悪い』にすることで私の中にいるどうしようもないこの女は、辛うじて母親であり続けることが出来るのである。私にしてみても、生きる為には都合の良い方向に事が進む。弱い生き物である私が生き延びる術として、この女の力をまだ必要としており、完全に切り離すには少々勇気が足りていなかったのだ。そんな幼い私は、生きる為の本能的思考から、あえてここから考えを開始しているのであった…と思う。
しかし、この思考の続きは一人になったときに考えるようにしていた。正しくは輩の代表者である彼女の前では考えることが出来なかったのであった。簡単に言ってしまえば彼女の顔色が気になるのである。そんな私はこれ以上彼女の気分を損ねないようなるべく思考も含めて身体の動きを止めることに意識を集中させた。
「まだ何かあるの?いつまでもそこに居られると気が散るわよ」
いつまでも何も言わずに、いや、言えずにただ突っ立っている私に、彼女は普段の会話のような口調でそう言った。
それは抑揚が無い分、かえってきつく聞こえた。
反面、立ち去る許可を得たことに安堵もした。口が利けない私は、軽く頷くだけして、楽しそうにテレビを視ている彼女を不快にさせないよう物音に気をつけながらこの場を立ち去った。
私が向かうのは人様がいない一人の空間であった。この空間こそが私らしく居れる唯一の自由な世界であった。
部屋を持たない私が落ち着ける場所の一つが家の横に面した草原であった。
夕暮れ時にはこの草原全体が鮮やかなオレンジ色で染まる。その光景には何処と無く切なさがあり、私が欲している母の温もりのようなものを感じることが出来た。そんな優しいオレンジに包まれると、私が私であることが良いことだと、まだ見ぬ『心の母』が言ってくれているような気がした。草原に咲く小さくて可愛らしいデイジーや背の高いヒナギクは柔らかな風に吹かれながら笑顔で優しく『あなたは素敵な存在だよ』と励ましてくれているように感じた。そんな私だけの世界に浸ると心がとても自由となり、その後に止めどなく涙が溢れた。
私のこの時間を苦しいものにするのは他ならぬ私の中で否応なしに込み上げてくる怒りにも似た感情であった。この感情が実に厄介であり、それを組み込んで考えることで
『私が悪い』から始まる、生きるための考えに支障が出るのであった。
支障が出れば私はおかしくなって身体が動かなくなってしまう。だから私は努めてこの感情を阻止した。込み上げてくる感情に強く強く蓋をして…。
こうやって私は理不尽な扱いに整理をつけるのであった。
人様からは何処か面倒くさそうに扱われ、その度に苛立った顔を向けらる…。
…私はいつだってそうであった。
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