講説師匠

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松の内も過ぎ、平常の生活に戻ったのは良いのですが、先生はこの数日、原稿を手に家の中を歩きながら「うーん、うーん」と悩んでおられました。 昨年の暮れから漱石先生の具合が芳しくなく、帝大の特別講師を頼まれておられた漱石先生の代わりに親しい者や門下生が講義を行う事になった様子で、先生はその初回を任された様子でした。 学生相手の講義です。 「そんなに根を詰めなくても」と編集者の白井さんが先生に進言されると、 「初めが肝心と言うだろう。漱石先生の顔に泥を塗る事になると、私は腹を切らなければならぬ」 と先生は髪の毛を掻き毟りながら、書卓に向かっておられました。 私はそんな先生の邪魔をせぬように、一日の大半を食堂で過ごしております。
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