第一章 発端

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 天知光子は着ていたコートを脱いで、鞄と共に床に下ろした。その瞬間、かすかに甘い匂いが漂った。 「ああ、その綺麗なコートと鞄はソファに置いてください。ずっと掃除していないので、お洋服や鞄が汚れてしまう」  間宮があわてて言う。  本人は清潔そうな外見をしているというのに、この事務所の雑然とした汚さはどういうことだろう、大河内は不思議に思う。  間宮の下宿先も万年床で、書籍や資料が至る所に積み上げられている、おそろしく汚い部屋である。 「まあ! でしたら、手始めにお掃除からさせていただきますわ」  光子が元気よく言って、部屋を見回した。  その様子は、どこか働き慣れている感じを大河内に与えた。  同時に、彼女の着ているものは高価(たか)そうで、働かなくてはならない立場や身分の娘には見えないのだが、という感想も抱いた。  光子がビルの管理人室に清掃道具を借りに行ったので、大河内はその隙に、今日訪ねてきた要件を間宮に切り出した。 「小達淳一郎(おだてじゅんいちろう)、知っているだろう?」 「不良華族の? 知らない人はいないくらいの有名人じゃないか」 「彼が今、灘警察署で拘留されている」 「驚くことじゃないね。神戸まで来て今度は何をした? まさか人殺しでも?」 「そうだ。それも、このビルのすぐ近くでだ」  冗談のつもりで言ったことを大河内に肯定されて、間宮はひどく驚いた。 「本当に? いつ?」 「今朝だよ。そうだな、今から四〜五時間ほど前か。水道筋に入ってすぐの菓子屋で、爺さんが殺された」
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