鬼火彷徨う町の娘

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鬼火彷徨う町の娘

 彼女の透き通った声は誰もいない聖堂で高らかに響いた。  数多ある聖歌を日々決められた順に、我らが父なる神に歌い上げる。修道女のまとうフードの下には蜂蜜を煮詰めたような甘い色の髪が隠れている。  伸びやかに朗々と歌い上げた彼女は、閉ざしていた目を開く。左目に碧、右目に黒を持つ少女は冷えた聖堂でひとつ息をついた。  千年にひとりと謳われる声と囁かれる彼女は、この両眼のおかげで忌み子としてこの教会前に捨てられていた。司教と修道女が彼女を慈しみ、教会が持つ聖歌隊のひとりとしてここで生きてきた。  彼女の世界はこの教会だけで完結していた。周囲に生きる者の顔ぶれも変わることはなく、穏やかな日々が続いていた。  それは、冬の寒い夜だった。積もる雪が人々の音を吸い上げる、静寂の雪夜。  彼女がその聖堂で聖歌を歌い上げている、その時に。背後、教会の入口に人の気配を感じた。  神への祈りの場は、誰にでも開かれているように。その理念を謳うこの聖堂は、夜であっても敷地の門へ鍵をかけることはない。  少女はそのまま人の気配に振り返る。司教が彼女の歌を聞くためにやってくることは時折あった。けれど、その場合も外からの扉を使うことはない。  そこへ倒れ込むように入ってきたのは、ひとりの青年。よろめき膝をついた彼の背後には、蒼い鬼火がゆらりゆらりと燃えていた。少女は息を呑む。  鬼火は悪しき魂だと聞かされてきた。人の心の隙間に入り込む悪魔の従える魂であると。  すくむ足を叱咤して、その青年へ駆け寄った。膝をついた彼を抱き寄せるように両腕を回した。  ここは父なる神の庭。鬼火は聖堂の中までは入ってこられない。 Gloria in excelsis Deo.(天のいと高きところには神に栄光) Et in terra pax hominibus bonae voluntatis.(地には善意の人に平和あれ)  短い一節を少女は歌う。それを聞くなり鬼火はどこか恥じ入るようにその姿を消した。少女に魔を祓う力はない。けれど、かの鬼火がこれらの歌を嫌うことは知っていた。  膝をついた青年は、ようやく今の状況をおぼろげながらでも理解したようだった。少女の腕の中で、どこかすがるように少女の修道服を掴む。 「だいじょうぶ、ですか?」  青年は未だ彼女の問いかけに応える余裕がないらしかったが、震えこわばる身体は次第に少しずつではあるが力が抜けているのを、少女はその腕で感じていた。 「もう、あの悪しき者共は来ないでしょう。……ようこそ、この聖堂へ」  柔らかな少女の声音に、青年はこちらへ顔を向けた。その顔にハッとする。  かの青年は、左目に黒を、右目に碧を抱いた、いわば少女と対の瞳を持つものであったから。  忌むべきものと言われた自分と、同じ色を持つ青年。言いしれぬ思いをいだきながらも、少女は何も言わず彼の言葉を待った。 「――――私は、助かったのですか?」  ささやく声は甘いテノール。少女はこくりとうなずいた。少女は彼の背へ回していた手を離す。  安堵の吐息の後に、青年の手が少女のそれを取った。どれほど外を彷徨っていたのだろう。痛いほどに冷え切った手だった。 「ありがとう――――ありがとう、ございます」  祈るように、青年は彼女の手に額を当てた。少女は彼の手をようやく少し握り返す。少女の手のぬくもりが、彼のそれへと移っていく。 「どうしました?」  聖堂の奥、少女の背後から、司教が姿を現した。司教の部屋はこの聖堂に近く、少し部屋が響くのだとも聞いている。また、少女の歌が聞こえなくなったのに、聖堂の蝋燭が消えていないことを不思議に思ったのかもしれない。  司教の姿を認めて、青年が少し弱々しくもひとりで立ち上がる。少女はその傍らで一歩引き、静かに一度頭を下げた。 「鬼火に追われていたところ、美しい歌声が聞こえました。惹かれるように、ここへ」  どうぞ私に憐れみをお与えください、と彼は司教へ膝を折り祈った。少女もその傍へ膝を折った。  どこか、親近感を感じていたのだろう。自身と同じ忌むべき両眼を持ち生まれてきたこの青年に。  司教は慈悲深い笑みを見せた。 「この聖堂は、祈り持つすべての人々を導くところです。ようこそ、我らが聖堂へ」  司教は膝を折り、彼の手を取った。心優しい司教そのままの姿で、彼を受け入れることを決めた瞬間だった。祈るように嗚咽するように、かの青年はその司教の前に崩折れた。 *****  翌朝、司教はこの聖堂に暮らす修道女達に彼の来訪としばしの滞在を説明した。  この聖堂は女の園。司教を除き男性はひとりもいなかった。そうしたこともあって、反発する者たちもいた。彼女らにとって、異性というのはあまりにも遠い存在であった。  それでも、司教の決断はこの聖堂にとって揺るぎない確かなもの。聞き入れられないと言うなら自分が外へ出ていくより他にない。そんな葛藤を抱く修道女達を、司教自ら、または少女が周囲の頑なな心をほどいていった。  少女も、礼拝のときに接する程度でしか関わりのなかった異性が、これほど近くで同じ生活をするというのが怖くないといえば嘘であった。異性との関係が禁じられていないとはいえ、ある種の「危ない噂」というのは少女も理解しているところだった。  異性であることに加えて、彼女はこの青年がここへ逃げ込んできたその光景を見ている。  青い碧い鬼火が遊ぶ、魔の夜の光景を。  夜は魔の者共の時間。黄昏を超えて外を歩くのならば、魔に魅入られることと思え。そんな話がまことしやかに伝え続けられている街だ。  最近は信じないものも多くなってはいたものの、黄昏時に異形のものを見たという話は依然として多かったし、森で鬼火を見たという者たちも多くいた。  存在を疑うまでもなく、魔はそこに「ある」ものだった。  鬼火とともに現れた人間など、どうして信用などできようか。普段の少女であったなら、他の修道女と同じく彼を遠巻きに見ていたことだろう。  それでも、どうしても彼を恐れることが出来なかったのは、彼のその忌むべき色違いの瞳のせいだ。  そして、色違いというだけでなくその片目は碧。この街では忌避される色であった。  この碧は魔に棲む者たちが好む色。彼らを魅了する色だという。少女がこの聖堂前に捨てられていたのも、その碧を宿していたからだろうと言われている。そして、なるべく夜は外に出ないように、ときに雪の降る夜だけは、出来うる限り部屋にこもっているように、と言い聞かせられてきた。  きっと、彼もここまで苦労をしてきたことは容易に想像がついた。  その証左というわけでもないが、華奢な彼の身体には多くの傷があったが、今処置をして意味があるものは少なかった。遠く昔につけられたであろう古傷の痕は、司教の魔術でも治せない。  そうした傷を見ていれば、この青年は遠き世界からこの街にやってきたのだろう、というのは誰しもがわかった。  この聖堂は悩める人々の受け入れ先というだけでなく、悪しきものから敬虔な人々を護り安らかなる生を与えるために存在していた。そう広くない街だ。もし彼のような「忌み仔」がいたならば、きっともっと早くに聖堂へ知らせが来ていたことだろう。  彼はさして荷物を持ってはいなかった。あの「魔」の夜から逃げる途中で、全てなくしてしまったのだと彼は言った。  そんな青年が唯一持っていたのは、古めかしいランタンがひとつ。 「これだけは、手放してはならない。手放すことができなかったのです」  手放すことを忌避する理由が一体何であったのかを、青年は覚えていなかった。それでも、このランタンだけは自分のものである。そう唯一、青年が言えるものであった。  魔術に疎い少女であっても、そのランタンには何かしらの魔術がかけられていることは分かった。けれど、この聖堂が扱う加護の術式とはいささか違うようで、司教も首を傾げていた。  なぜかはわからないが、少女はその火の入らないランタンが少し恐ろしく思えていた。あの雪の夜、このランタンには鬼火のような炎が宿っていたような気がした。  しかし、その話題に触れることはできないまま、話は司教が口にした「夜を避けるように」という教会の教えに移っていた。 「とりわけ、雪夜を恐れるのはなぜでしょうか?」  青年が尋ねる。それはかつて少女が問いかけたのと同じ言葉。初めて聞かされたときは、彼女も同じ感想を抱いた。 「雪の夜は魔の者共の力が一番強く、彼らの魔力がとりわけ濃くなる日だ。行くあてのない、まつろわぬ魂が鬼火となってこの街に溢れ出す日。魅入られてしまわぬようにするためだ」  鬼火は雪の舞い降る夜にとりわけ多くさまよいいづる、とは聞いていた。  青年がこの聖堂へやってきた日も、確かに外は雪が降っていた。 *****  青年がこの教会に迎え入れられてからも、少女の生活はさして変わることもなかった。  少女は誰もいない聖堂でひとり歌を捧げる。  これは物心ついたときからの日課とされていた。彼女が聖歌を憶えるまでは他のものが歌い継いでいたそうだが、少女はそれをおぼろげにしか覚えていない。  少女に歌を教えた修道女は、既にこの修道院にはいない。彼女が歌を覚え、その役目を変わる頃にはこの世での生を終えていた。彼女から教えられたことは歌以外にもいくらかあったが、その中でも繰り返し言われたのは、決してこの歌を絶やしてはならない、ということだった。  彼女の歌はのびやかに響く。その歌は神に捧げられ、いずれ自分たちが神の御前に赴くその時の祝福となるのだと聞かされている。  歌い終えたあと、ひとりの拍手が響いた。振り向けば、礼拝堂の後方に青年が座っていた。少女は気恥ずかしくはにかんだ。 「僕をここへ招き迎えてくれたのは、あなたの歌でしたから」  今でも、彼はあの夜の歌声を覚えているという。いつも夜毎に歌っているのか、と彼は問うた。 「朝と夜、毎日歌い継いでいくことになっています。それに合わせて鐘を鳴らしていくのです」  朝と夜の歌唱役になったものは、ミサや他の礼拝で歌うことを禁じられる。それだけ神聖なものであるということなのだと彼女は理解していた。  戒律の多さに青年は少し同情的な声をかけたが、物心つく頃からこの生活をしている彼女にとってはさして窮屈に感じることもなかった。 「あなたは外の世界を見てみたいとは、思わないのですか?」 「……外の世界は広いのだろうと、夢見ることはありました」  彼女はほとんどすべてをこの聖堂の敷地内で生きてきた。時折礼拝にやってくる人々は、この色違いの両目を恐れるため会話することも控えている。彼女の世界は随分と狭かった。 「それでも、あなたを迎えた日から、私の世界は随分と広がったのです」  それは彼女だけの話でもなかっただろう。  もとより、修道院に身を置くものたちは己の意思で外へ出ることは叶わない。修道院の敷地の中には日々の暮らしに困らぬ程度の農作物が植えられていたし、外へ出る必要もまたなかった。例外があるとすれば、この聖堂までやってくることの出来ない住人たちのところへ礼拝を行うため、司教に付き添うくらいのものだった。  彼は自身に関する記憶こそ失っていたが、この町にはないあれこれ様々な物事を知っていた。ときに異国の物語を語ることもあった。  外からやってきた彼にとって、ここはひどく閉鎖的に見えるのだろう。それはこの教会に生きる者だけでなく、この町全体の印象として。 「教えがあるのです。町の人々が皆で守ることにしている教えが」  この森の町から決して出てはならぬ。森を抜ければ二度とこの町へ帰ってくることは叶わぬだろう。そう、町の人々らは言い伝えていた。 「なぜ、だと思いますか?」  青年はそう少女へと尋ねた。繰り返し繰り返し聞かされる教え。特に意味を見出すこともしなかった。それは彼女たちにとって当たり前の話であった。  人は生まれながらにして罪を負い、魔のはびこるこの世界へと産み落とされた。罪の浄化は敬虔なることをもってされるとされ、神の哀れみによって天上へ救い上げられるその日まで、祈りを捧げ生きてゆくことが定めとされる。  この町を囲む広大な魔なるものが棲む。町へは雪の夜にしか現れない鬼火も、元はこの森に棲むものであるという。そして、一度迷い込んだが最後、魔のモノに取り込まれ、最後は同じものに成り果ててしまうと言われていた。  夜は魔の力が強く濃くなる時間。町を守る加護の結界を、あの鬼火はすり抜けてくる。  それを彼へ伝えれば、自分が忌むべき両眼を持つ以外に遠巻きにされる理由は分かったらしい。  魔の森を抜けてきた、外からの来訪者。町の外を知らない人間からすればそれは畏怖の対象となる。 「森は、私達を惑わせるのです。多く妖魔の棲む森ですから」  青年は少し思案するように視線を下げた。何か良くないものがあの森にいることは彼も理解しており、自分がここへ来るときに鬼火に追われたことも覚えている。無闇に疑うことはなかった。 「でも、本当は。それだけではきっとないのでしょうね」  少女の言葉に、青年は不思議そうな目を向けた。 「この町の成り立ちを、あなたは司教様から聞きましたか?」  彼は首を横に振った。少女は、その生い立ちからたまたま聞かされることとなったものだ。彼が知らないのも無理もない。 「他の場所では生きられない。そんな人達が流れ流されてようやくたどり着いたのが、この場所だった。他に寄る辺のない人々が、この町を作り上げたんだそうです」  だからもとより外へ出ることを禁じていなくとも、きっとこの町の人たちは好んで外へ出ることはない。ここはいわば隠れ里のようなところだった。見つかれば命がない、という事情を抱えた者たちも中にはいると言われていた。この教会は、はるか昔からそうした告解を数多く聞き入れていた。 「そんな理由があるから、この町に住む人たちはもとより外へ出ることを好みません。それに、万一この村の存在が知れ渡れば、命を脅かされる方も中にはいるかもしれない。それを防ぐために、後世の人間には真意を知らせずこの町を外界の目から隠すために。外へ出ることを禁じる掟が出来たそうです」  たとえ周囲を魔の棲む森に囲まれていたとしても、隠れ生きることをかつての人々は選んだ。  外からわざと隠れているような町だったが、それでもやはり完璧に隠れ続けることは出来ない。そう少女は言葉を続けた。 「外との繋がりが完全にないわけではありません。……この町は時折、人が『増える』のです」 「……増える?」 「私も、そんな『増えた』人間のひとりです。私はこの教会前に捨てられていたそうですが、ここは小さな町です。赤子が生まれればすぐに周りに伝わります。それでも、あの頃身重の人間は居なかったと聞きました」  無事に産まれてくるようにと、懐妊が分かれば司教が祈りを捧げるのがこの町の習わしだ。その関係で、教会関係者は人の生死に関する情報はとりわけ早く入ってくる。もしそうした習わしを嫌い隠し通そうとしていたとしても、やはり身体に変化が現れる以上、隠し通すのにも限界はあるものだ。 「誰が私をここへ置いていったのかを、知りたいとは思いません。けれど、きっとこの町の人間ではないのでしょう」  子を捨てことは当然のように禁忌に値する。それが町の人間の目に入れば、この町で暮らしていくことはできないだろう。そんな愚行を、この町の人間が犯すとは思えない。  けれど、忌むべき双眸を持った赤子を育てることも殺すことも、何につながるかわからないから恐ろしい。  そうして考えていけば、ひとつの可能性に行き当たる。  町の人間が外の世界を忌避しているから仔細を知らぬだけで、この森の外には世界が広がっている。  周囲に広がる森さえ踏破することができたなら、この町へ足を踏み入れることは造作もない。夜に忍べば、赤子をひとり置き去って町を出ていくことは簡単だろう。  外の世界が、この町をどう呼んでいるのかを少女は知らない。けれど、魔のはびこる森に囲まれたこの町を快く思わないことは分かる。  忌むべき森にある町であれば、忌み子のひとりくらい置き去っても構うまい。  そんなことを考える輩は、どうやら珍しくもないらしかった。無論、この町に置き去られた子どもが皆忌み子であったわけではない。中には口減らしのようにして森中に放り出された者もいたようだ。  だから青年がこの町へ迷い込んできたとき、少女もそのように思ったのだった。  青年は少女の話を聞いて少し考え込むようだったが、それでもじきに首を横へ振った。やはり、今でもどのようにしてここまでやってきたのか、記憶は戻っていないらしい。 「私が覚えているのは、ひとつだけ。あの森の奥には、泉がひとつある。私は、そのほとりに佇んでいました」  それがはじめの記憶なのです、と彼はこぼした。彼は火の入らないランタンをそっと手にとった。 「鬼火の浮かぶ泉です。どうしてそこに居たのかもわかりません。ただ、その森の中でおぼろげに、鐘の音が聞こえました。その音を頼りに森を抜けて、町の入口までやってきたときに、あなたの歌声が聞こえたのです」  彼の周りに居た鬼火は、その泉からずっと彼を追ってきていたのかもしれない。 「私がここへ導かれたのは、なにか理由あってのことだと思っています。あなたと巡り合うためだったのかとも、はじめのうちは思いました。けれど、きっとそうではない」  青年は少女の目をしっかりと見つめ、願う。 「私の記憶の始まりへ、あの泉へ、一度足を運んではもらえないでしょうか?」 「……どうして、でしょうか?」  あの泉は、この町に現れる鬼火と関係があるはずだ、と青年は言った。 *****  瀬の低い緑に覆われた只中を、少女は青年と静かに歩みを進めていた。木々が生い茂った森の中は、昼であるのに陽の光もほとんど差し込むことがない。どこか薄暗闇の黄昏時をゆくような思いがした。  りぃん りぃん と鐘がなる。小さくも厳かなるその鐘は、彼女が数歩歩むごとに鳴らすもの。  道なき道を、ふたりは進んでいく。  古来、泉には聖なるものも魔なるものも棲むという。もしその泉が私達敬虔なる民を助けくださるというのなら、祈りを捧げに向かうのも悪いことではないだろう。 「これを持っていきなさい」  そう司教が少女に手渡したのはひとつの鐘。手で持って鳴らせるほどの小さな鐘だ。鐘の音には魔を追い払う力があるとされていた。事実、この聖堂にも連なるような鐘が備え付けてあり、洗礼のときにも鐘を鳴らす役のものがいる。  少女は一度、鐘を鳴らす。  森中は魔の領域。どれほどその鐘が役に立つかは分からぬが、と司教は言っていた。けれど、この鐘は聖堂に掲げられたものと同じように鋳造され聖別された代物だという。憑き物落としの際にも用いられるものだ。  鐘の音に怯えるように、ランタンの炎が震える。生きましょうか、と青年は彼女の手を取ったまま歩みだす。少女はそのまま、彼に手を引かれ森に足を踏み入れたのだ。  森の入り口では鳥の鳴き声も聞こえていたが、それもじきに聞こえなくなった。  りぃん りぃん と鐘を鳴らしながら歩むその道行きは、どこか葬列のようだと少女は思った。  そうして歩むうちに、木々に覆われた視界が開けた。  薄暗い森の中で、その泉はこんこんと水をたたえて静かに来訪者を待っていた。  そこまで広くもないけれど、おそらく随分と深いのだろう。泉の端から中央へ向かうにつれて次第に(あお)が深まっていた。その碧は、少女と青年が持つ瞳の「碧」に少し光を足し込んだような、怪しくも美しい色をしている。  ただ、それよりなにより少女が恐ろしく思ったのは、その泉の上へいくつもの鬼火が明滅していたからであった。  町に現れる鬼火や、青年の持つ魔を読むランタンに入る灯は蒼い炎であるのに対し、この場所に浮かび消えゆく泡沫のような鬼火は赤や白など、様々な色で明滅している。  その炎は生きた人間が珍しいのか、歩みゆく少女の方へとすり寄ってくるが、少女がひとつ鐘を鳴らせば恥じ入るようにその炎の身体を揺らして消える。  鬼火とは、何かしらの理由によって天国へも地獄へもいけず、さまようことしかできなくなった人間の魂であると言われている。自分たちはこうならぬよう、いつも祈りを忘れぬよう。そう司教は繰り返し自分たちに語ってきた。  けれど、それが本当ならば。これほどの数の魂が、この世をさまよい続けているというのだろうか。  少女は身を震わせる。  少女の持つ鐘に浄化の力はない。鳴らせば気休めのようにその姿を変じ消えるが、それもいっときのこと。  ここへ来てはならないと本能で理解した。それでも、脚はすくみあがって動かない。そんな少女の手を、青年が取った。 「やはり、これは恐ろしい光景に見えますか」  その青年の声音がどこか悲しげで、少女は彼を見上げた。彼の視線は鬼火舞う泉に向けられたまま。ともすれば独り言のようにも聞こえる静かさだった。 「私にはこれが泣いているように見える」 「……泣いている?」 「落ち貶されて泣いている女性に見える」  鬼火はさながら空へ流れる涙のようだと、彼は続けた。  泉は清浄なものと言い習わされている。  それが、このように魔のはびこる場所になってしまっていることを、彼は嘆いているのかと思った。 「私にわずかに残った記憶の始まりは、ここなのです」  彼はこの場所で、すすり泣くような、嘆くような声で目を覚ました。自分の周りには今のように鬼火が飛び交い舞っていたが、恐怖と同じくしてどこか寂しさを覚えた。置いていかれたような、遺されたような、一抹の不安と心細さ。そして悲しさが去来した。  けれど、この泉が何を求めているのかを、青年は聞き取ることができなかった。ただ泉は嘆いているだけなのかもしれない。  記憶にはないが、きっと自分はあまり敬虔な人間ではなかったのでしょう。青年はそう苦く笑う。 「私をここに連れてきたのは、そのためですか?」  もしかすれば、彼女ならば。この泉の「嘆き」を聞き取ることができるかもしれない。そんな願いが行動を起こさせたのかと尋ねれば、青年はひとつうなずいた。  その泉を見る青年の眼差しは、少女が今まで一度も見たことがない類のもの。  悟った。彼は、この泉に恋をしている。  それが、泉を神聖なものと見出したが故なのか、それとも魔に魅入られたが故であるのか、少女に判断はつかなかった。これが自分の生きる街の人間であったなら、きっと後者として捉えられたのだろう。行き着く先は暗い末路しかない。魅入られたものはどうあっても助けられはしないのだと、少女は知っている。  それでも、少女は青年の手を握り返した。彼が、そのままこの泉に身を投げてしまうのではないかと思った。焦がれるというのは、彼の様子を言うのだろう。  それでも、少女は泉に青年を奪われるわけにはいかなかった。ようやく、彼女は理解した。  少女もまた、彼を愛していたからだ。  その感情は、忌まわしき色違えの両眼という共通点による親愛であると思っていた。けれど確かに恋心は無自覚のまま彼女の裡で育っていた。そうして、彼の焦がれる視線をもってようやく、少女の感情は花開いたのだ。 「……そろそろ」「『彼女』を、救うことは。できませんか」  帰ることを促そうとした少女の言葉を遮るように、青年は少女へと問うた。その双眸には真摯な光が宿る。その切なさに、目をそらした。  彼は、泉を「彼女」と称した。やはりそうか、と妙に腑に落ちた。少女は目を伏せたままま、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。 「私達がつとめるあの教会は、もう何代も前からあの場所にあると言われます。そして、あの街が「鬼火舞う町」なのも、ずっと変わらないのです。父なる神は私達に、魔を祓う力はお与えにならなかった」  魔を遠ざけることはできても、祓うことは出来ない。そう少女は続けた。  それはあの町の人間全員が理解している。あの町で生きる根底の観念。  少女と青年の周囲を鬼火が舞う。鐘を鳴らせばそれらは消え入るものの、一時のこと。  青年はそっと視線を伏せた。そのまま、彼女の手を離してしまう。それを追うことはできなかった。  その時だった。視界に白が映り込む。はらりちらりと降るそれは、季節外れの雪。  息を呑む。雪の日は、鬼火も多く飛び交う魔の時とされる。早くこの森から出るべきだと少女は本能的に理解する。青年の手を取ろうとした。  けれど、それよりも早く森の様子は変容していく。  風も吹かない、しんしんと雪だけが降る中、湖面が少し波打ち、光を帯びる。  はじめに気がついたのは青年だった。遅れて、少女も泉に視線を向ける。  次に、聞こえてきたのはかすかな「声」だ。  他に人がいるはずもない、この森の中で。その声は、あろうことか泉から聞こえるようだった。  青年が膝をつく。湖面は彼の顔が映り込むほど澄んでいた。少女もその隣に膝をつき、ゆっくりとその泉を覗き込む。  泉に映るふたりの像が、かすかに揺らぐ。 ―――― 鐘の音を 聞かせて ――――  それは、女性とも男性ともつかない、それでも確かに「声」だった。鼓膜を震わすわけではない、頭に直接響く声。それでも生来の癖で周知を見渡す。当然のように、この場所には自分たちしかいない。  自分だけが聞こえるのではないか、と隣の青年を見れば、彼も同じように少女を見た。彼にも、かの声が聞こえているのは分かる。  再び、同じ声がする。鐘の音を聞かせてと。少女はその手に持つ鐘を一度、二度と鳴らしていく。  その音に呼応するように、泉に映る像は震える。後ずさりかけた少女に対して、青年は引き寄せられるようにその泉へと足を踏み出す。  声が続いた。その声は、泉の底から響いているのだと悟る。 ―――― なんと恋しき 鐘の音か。なんと清らかな 鐘の音か ――――  すすり泣く乙女のような声は、鐘の音に呼応して響いた。青年がその両手を握る。ためらうように、それでも耐えきれぬように、震える声で問いかける。 「あなたは――そこに、御座(おわ)すのですか」  それは愛しい君へ問いかける言葉。少女はその隣で唇を噛み瞳を伏せた。  もし、その水面にかの青年が愛しく思う相手が映りこんだならば、この体裁を繕うことは出来ないと分かっていた。  あまりにも愚かしい恋心。  けれど、それは彼には届かない。彼の視線は湖面に注がれていた。  幸か不幸か、その水面に「泉の主」の顔が映ることはなく、ただ揺らぐ水面がそこにあるだけだ。  けれど、その声は青年のそれに応える。 ―――― 久しき音に こうして声を放つことができることに どうこの喜びを表せばいいものか ――――  その声は語る。かつて、遥か昔。自分はこの泉に棲む幼き精霊であるという。  幼き、といえども、人と精霊の時間は同じように流れていない。その精霊が告げる期間は、人の一生を三度ほど繰り返さなければいけないほどの年数を要していた。  その泉の精霊は、この泉を、この森を清浄なものとして保つべくこの地に棲んでいた。  けれど、近くの場所へ人間が街を作ったことを皮切りにして、徐々にこの森へ鬼火が発生するようになっていったという。 ―――― 私は この泉を この森を そしてこの森にともに 生きることとなった人々を 守りたいと思っていた ―――― ―――― けれど それもかなわず あたわず このような魔の森に ―――― 「……どうして、それは、叶わなくなったのですか」  思わず問いかけたのは少女だった。泉から聞こえるその声は少し震えていた。悲しみの底に沈みこんで浮かぶことも出来ないような、そんな声。  泉の声は少女の問いと鐘の音に、物語の続きを語った。  光強くなるところにまた影も深くなる。人々が住まい始めれば自ずと夜は明かりを灯し影を照らし始めた。渾然一体としていたこの森も徐々に境界が作られ始めた。  そして、人間は自らの町を守るために聖別した鐘を鳴らすようになった。その鐘の音はこの森深くの泉にまで響き渡った。鐘の音は街から鬼火を遠ざけはするものの、森全体を守り魔を祓うまでの力を持ちはしなかった。  けれど、清浄なる鐘の音は泉の精の心を癒やすものになっていた。  ただ、町へ人が増え始めてから、話は少しずつ変わってきた。  鬼火とは、さまよえる生き物の魂である。その逸話は正しい。  森に生き始めた人々は時折この森でさまよい命を落とすようになった。それは弔われることもなく、さまよえる鬼火となって森にとどまるようになった。それらの嘆きは魔を呼び込む格好の餌となる。  それまでは泉に棲む精の浄化力で対応できていたものが、逆に領域を侵されるようになることに、そう時間はかからなかったという。  鬼火は水を好む。泉に集まるのも半ば習性であった。それを利用するようにして、できうる限りの鬼火をこの泉にとどめ置いていた。それでも、魔の力が強くなる雪の日は抑えきれずに鬼火が街の方へと流れていった。元は人の魂である鬼火は、無意識に人を求める。  人間が原因とはいえど、今やあの町もこの森の一端。人はこれからも営みを続けていくだろう。それを忌避するつもりはない、と泉の声は重ねた。 「けれど、このままでは、あなたはどうなってしまうのですか」  魔に冒されたまま、泉とともに命ごと枯れ落ちる。そんな未来を想像するのは容易いことだった。  今でこそ、自分たち、あの街の人間は生活を脅かされこそするものの何も実害がなく日々を生きている。けれどこの泉の精が鬼火を引き受けてくれているのだとすれば、ここが失われればどんな災厄が訪れるか分からない。少女は独り身を震わせた。  自分たちの命を最優先に考える、その浅ましさに嫌悪をすれども、それでもやはり恐怖心には抗えなかった。少女はそう、ただ恐ろしかったのだ。自分が、自分の周りのものが死に絶える姿が。  身を震わせる少女の手に、青年の手が重なる。思わず驚いて体を震わせた。それでも、その手を振りほどくことはない。青年は少女から手を離すことはなかった。 「あなたは泉の精であろう。いわば神に近きモノ。私達は、どうかあなたを救いたい」  水面がわずかに波打つ。いつの間にか、周囲を舞う鬼火も消えゆき数を減らしていた。  いつの間にか雪はやみ、空の端が白み始めている。近く、この森は朝を迎える。  彼の言葉に応じたように、かの泉の精は大気を震わせ言の葉を紡いだ。 ―――― かの鐘の音に 魔を寄せぬ力がある ―――― ―――― どうか かの鐘を この泉へ沈めてほしい ―――― *****  あのさまよえる魂たちを、あの泉に沈められし精を、救えるならば救いたい。  そう初めに口にしたのが、自分であったのかそれとも青年であったのか。すでに記憶に定かではないが、誰に言われるまでもなく思い抱いたのは確かだった。  魔の者共とは相いれぬとは言えども、ここにさまよう鬼火たちは、もとは人の魂であったと聞く。  この森に、泉に魅せられ命を落とした者たちであるのなら、正しく導いてやることはできるのではないか。そうすれば、魔に怯える生活も終わりを迎えるのではないか。  けれど、はたしてかの言葉は正しいのか。その判断が、彼らにはつかずにいた。  司教は彼らが戻ってくるのを眠ることもなく一晩待っていたようで、彼らが戻ってきたときには心の底からの安堵の表情を見せてふたりを迎え入れてくれた。 「あの鬼火たちは、この鐘を恐れていました」  鐘の音には魔に抗する力があるというのは、迷信でもなく本当であったのだろう。取り憑かれず取り込まれずに、森へ向かい戻ってこられた自分たちがその証左だと青年は言った。  司教は考え込むように、皺の寄った眉間へ手をやる。  このところ、町へ現れる鬼火の数は増える一方であった。もとより月の満ち欠けと魔の力には関係があると言われていた。近く満月の一夜ではあるが、それでも今までよりも随分と、夜に舞う鬼火の数は多いように思えていた。  魔に抗する方法は様々あったが、最後の要は人々の信仰心であるとされていた。信仰心が己の身を助くのだと。  疑心は信仰心を錆びつかせ剥がし取る。町全体に、このまま自分たちは魔に飲まれて命を落とすのではないか。そんな疑心がはびこっていた。  何か、ひとつ手を打たなければならない。それは司教も感じていることだった。  だからこそ、彼らを森へ向かわせることとなったのだ。何か現状を打破する方法を求めていた。  そして彼らは確かに魔を祓える可能性を知った。  長い熟考の末、彼らはかの「泉の声」を信じることにした。 *****  泉を浄化するために沈める鐘は、今聖堂の上に飾られて使われているものを用いることとなった。今この聖堂が守られているのは、この鐘の力であるところが大きい。鐘の音だけではなく、鐘自体にも神の御業は宿るとされていた。  この聖堂へは新たな鐘を鋳造することになり、初めは消極的であった町の人々も仕事に精を出すようになりはじめた。ともすれば魔に怯え眠れぬ夜を過ごす日々と決別できる、と信じられるようになってきたのだろう。 「――――いい風が吹いてきましたね」  鐘楼の上にいた少女へ、青年は隣に立ちそう告げた。  自分がここへいるときに、誰かが尋ねてきたことはなかった。あまり修道女も司教も、ここへは登ってこないのだ。 「よくここがおわかりに」 「――――あなたのいるところですから」  青年はそう柔らかく笑んだ。どこか恥ずかしそうでもある笑みだった。笑うと少し幼さの見える彼の表情につられて、少女も笑みをこぼす。  一筋の風が吹き抜ける。この鐘楼は町の中で一番高いところにあり、登れば街全体を見下ろすことができるようになっていた。街の周りに広がる森は広く深く、果てなどないように見えるほど。  それでも、青年はこの森の「外」からやってきた。それだけは、彼がもつおぼろげながらも確かな記憶だという。 「少しは、思い出せましたか?」  過去は人間を形作る基礎。それが失われているのだ。こんなにも怖いことはない。  少女の問いに、青年は緩やかに頭を振った。もう戻ることはないのかもしれない、とこぼす声には、どこか諦めの色がにじんでいる。 「けれど、それでもいいと、思えるようになってきたのです」 「……?」 「失った記憶は、私には過ぎたるものとして神がお隠しになったのではないか。そして、失われた記憶を取り戻すことは叶わずとも、代わりに新しく何かを得ることができるなら、そのほうが素晴らしいことではないか。そう、思うようになってきたのです」  このような思いは、神がお許しにならないかもしれませんが。そうこぼす青年はどこか少し自嘲的であった。神からの罰として記憶を奪われた自分が、未来を夢見ることは許されないのではないか。そう暗に告げていた。  少女はそっと彼の手を取った。無意識だった。 「――過去の過ちは、決して消えることではないでしょう。私達は、生まれながらに罪を負っている。それでも、私達は贖罪を続けながら生きていくことを定められました」  少女の暖かな手が、青年のひどく冷え切った手へぬくもりを分け与える。 「私達はひとりではありません。あなたがここで生きるというのなら、私達と何も変わることはありません。共に、歩んでまいりましょう」  見上げれば、オッドアイの双眸と視線が絡む。幽き炎のように揺らいだ視線を、少女のそれがしっかりとつなぎとめた。  どれほど、そうしていただろうか。青年が破顔する。 「ともに、生きていけたのなら。それはとても素晴らしいことだと思えます。ありがとう」  すっかりあなたの手も冷たくなってしまった、と言われてようやく、自分がずっと彼の手を握っていたことを思い出す。ふたりの手のぬくもりは同じほど。  ぱっと手を離した。青年はどこか少しおかしそうに笑う。少女はそのまま視線を伏せた。気恥ずかしさで頬が火照るのを自覚する。思えば、男性の手を自分から取ったのははじめてのことだった。  下から修道女が自分を探している声がする。 「また、ここでこうして話をしてくれますか?」  下へと降りようとした背中へ彼はそう問うてきた。階段を数段降りたところで振り向く。 「あなたがそれを望むのなら」  まだ少し頬を染めた名残のある、ほんのりと赤い顔で。少女はそうはにかんだ。 ***** 出来上がった鐘を、聖堂の鐘とかけ変えた。試しに鳴らしてみれば、聖なる鐘は重々しくも遠くまで響き渡った。その鐘の音に街の人々はたしかに祈り入ったのだ。  古い鐘を荷台へ積み、運び入れるのは少女と青年が先導するかたちで行われた。昼であるのにあたりは暗く、少女は空を見上げる。空は真白に分厚い雲が覆い隠していた。 (――――雪が降る)  森を歩む中、少女は周囲の気温がどんどん下がっていくのを肌で感じていた。どこか息苦しさすら感じるほどの静寂に、自分たちの歩む音と少女が鳴らす鐘の音だけが重なっていく。  ふいに、隣を歩む彼が彼女の手を取った。その手は氷のように冷たかった。不安な思いを殺すように少女も彼の手を握り返した。  そのうちに、少女が危惧をしたとおりに雪が降り始める。舞い散る粉雪のようなそれを迎えるように森の只中に彷徨う鬼火も数を増やしてきた。  誰も何も口にすることなく、ようやくその泉のほとりへやってきた。その泉はほの明るく輝いて、美しさと同時に妖艶さをまとっていた。  泉にはあの時と変わらず鬼火が舞う。ぬくもりをもたらす炎がこれほどまでに恐ろしく冷たく思えるのは、きっとこの場所にとどめ置かれた魂であるから。彼らもまた、帰りたい場所があったはずだ。  少女はひとつ、息を吸い込んだ。 Absolve, Domine, animas omnium fidelium defunctorum(主よ、死んだ信者すべての霊魂を) Abomni vinculo delictorum.(罪の鎖から解き放ち給え) Et gratia tua illis succurrente,(また主の恩寵によって、彼らを敵のさばきからのがれさせたまえ) Mereantur evader judicium ultionis.(彼らに永遠の光明の幸福を味わわせたまえ)  取り込む空気は凍てついて肺の内から凍えそうであっても、少女の歌う声は伸びやかに響き渡る。  彼女が外で歌うのは初めてのことだった。  自分にこの歌を引き継いだ、先代の歌唱者の言葉を思い出す。  自分の声にはヒトとは違う「力」が宿っている。誰もが聞き入らずにはいられない声はヒトを生かしも殺しもするものだ。だから、使うところを誤ってはいけない。  彼女の声は、ともすれば「魔」に生きる者たちすらも魅了するモノであった。だからこそ、ヒトの前でみだりに歌うことも禁じられた。ただ神聖さと権威を保つためというよりは、彼女自身を守るためでもあった。  幼い頃に彼女が修道院前に捨てられていた理由。それはひとえにこの色違いの両眼のせいかと思われていたが、おそらくそれだけではない。彼女は泣き声で鬼火を引き寄せたのだ。  実際、捨て置かれたその場で泣いていた彼女の周りには鬼火が寄り付いていた。  少女の歌声が響く中、泉へ鐘を沈めていく。沈みきったところで、水面だけでなく大地すら震え始めた。少女のぐらつく身体を青年が支えた。  彼の持つランタンに、青い火が灯る。その様を見た少女は、息を呑んだ。人の手で火を入れることがかなわなかったランタンへ、鬼火がするりと入り込んで煌々とあたりを照らし始めたからだ。  泉の水面が輝き出す。けれどそれは、ランタンに灯った青と同じ鬼火の輝き。大気が震えるそれが、泉と呼応しているのだと誰もが理解させられる。 「確かに、この泉には精が棲んでいた。それは本当のことです」  少女を支える青年が、口を開いた。その声音はひどく落ち着いていて、眼前の濃密な魔の気配とのギャップに薄ら寒さを覚える。 「そしてかつて、ひとりの男がこの泉に身を投げた。泉の精が自ら穢れを呼び込んで、この泉は魔に侵されることになった」  この泉は、かつて生き物たちの傷を癒やす力を持っていた。精が棲み清らかであるからこそ「神の力」を与えられた奇跡の泉。人と交われぬ泉の精が、自ら人間の男を引き込んだ。  その男と泉の精に、果たしてどのような因果があったのか。それを青年は「覚えていない」と言った。それでも、事の顛末はこの状況を見ればよくよく理解できる。  その男はかつて多くの罪を犯し、神の御下へも地獄へも行けない運命を負っていた。泉へと引き込まれた男はそれでもやはり救われなかった。穢れで泉の精霊が息絶えてもなお魂はこの場所にとどめ置かれ、この世を彷徨う鬼火に成り果てていた。  魔は魔を呼び増殖する。行くあてのない人間が寄り集まって森の中へ町を作ったように、あてのない魂はこの森で、この泉で鬼火に転じた。  いつ頃であったかすら、もはや曖昧な頃。その男へ、ひとりの悪魔が契約を持ちかけた。それはかつて、行くあての無くなった男を哀れんで鬼火のランタンを渡した悪魔。 「その悪魔はこう言った。あの町の鐘。それをこの泉に落とし穢しつくしたならば、地獄の住人として迎えよう、と」  鐘と聖歌が鳴り響くあの町は、悪魔も寄りつけない場所となっていた。その結界を解く手伝いをするのなら、この場所から解き放ってやる。  悪魔の甘言であっても、彷徨い続ける永劫の運命から逃れるすべはなかった。ただひとつ、頷いた。  彼の語る物語を聞きながら、少女は泉から目を離せなくなっていた。自分を支えるその手の感触が、明らかに人ではない「なにか」に変わっていることにも反応できない。  泉の底から鐘が鳴る。ひどく歪曲された鐘の音に呼応して、泉の底から何かが浮き上がってくる。  水面が膨れ上がり、解き放たれたのは無数の鬼火。触れたものを青く焦がし焼きながら、それらは遊ぶように逃げるように、彼らは空へと舞い散った。 「あなたのおかげで、私もようやく行く先が見つかった」  ありがとう。そしてさようなら。代わりに、あなたにも「救済」を与えましょう。異形と化して異形を生む、鬼火の力を。それが、青年の最後の言葉。  あたりが静寂に包まれた、鬱蒼とした森の中。少女の背後に居たはずの青年の気配はとうに消え失せていた。そこに残ったのは、青い炎を宿すランタンがひとつ。泉のほとりに膝をつく。恐る恐る、泉を覗き込んだ。  そこに映る自身の顔は、ひとつの鬼火と化していた。 了
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