銀河鉄道_異聞

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 銀河鉄道と言えば、誰もが知る子供の寝物語であり、人の手の及ばない神秘であり、しかし確かに存在する幻想機構でもあった。  曰く、それは人の最期に現れる。夜空のヴェールが払われるように天上から飛来するそれは――この国では一部の富裕層しか乗ることの叶わない――蒸気機関車の形状をしているという。誰かが息を引き取った夜、優しく、低く、それでいて高らかと響く弔いの警笛を聴いたのなら、それこそが銀河鉄道の訪いの合図だ。闇夜よりも黒い車体は街灯りを柔らかに反射しながら、乗客の前で星屑の混じった蒸気を吐き出して停車する。もし、その場に付き添いの者などが居合わせたとしたら、その人は厳かな音を立てて扉が開く瞬間を見ることだろう。そして扉の先、よく磨き上げられた車内に、束の間は呼吸も忘れることだろう。飴色の床。虹色に瞬く吊洋燈。恐ろしく透明な歪み硝子の窓。深紅の天鵞絨で統一された腰掛。眠りについた乗客は、中から現れる人に似た形の銀の影によって、夢のような旅路に誘われる。やがて扉は閉まる。車体は軋み、また弔いの歌を歌って、そうしてゆっくりと動き出す。星空に向かって加速する銀河鉄道は、次第に星空に融けて見えなくなるのだった。――例え如何な嵐の夜であろうと、銀河鉄道の現れるその一時だけは、必ず星空が覗くものだった。乗客は浄土へ向かうまでのひととき、銀の鏤められた星々の間を滑る最後の旅をし、在りし日を懐かしむ。  銀河鉄道はしかし、誰も彼もを乗せてくれるわけではなかった。心の清い者のみ乗ることが叶うのだと、大昔から伝えられている。では、心の清い者とは? 何を以てして心を清いと定義するのだ? 一度道を外れれば、乗る資格を失するのか? 学者やら信仰者やらは侃々諤々の議論を今も続けているが、未だ真理には至っていないらしい。そのような人の煩悶などつゆ知らず、銀河鉄道は夜空を行くのだった。ある時は、昔は勤勉だったらしい農夫の横を通り過ぎ、ある時は生意気盛りの小さな子供を乗せて。  無論、端から自分など乗れやしないと、そう言って憚らない者共もいる。蟇などもその類いであった。      ◇◇◇  蟇、と云うのは呼び名である。誰も彼の名を知らない。ひょっとしたら蟇自身ですら。  蟇は西街では魔術師、北街では科学者を名乗っている。而して実態は――ガラクタ街の廃墟のてっぺんを根城とする彼の正体は、魔術も科学も少々囓った程度の、たちの悪い只の一商人である。痩せぎすの長身に鈍色の髪と、揃いの色をした鋭い眼。小綺麗な黒の外套など纏えばなるほど端正な顔立ちが幸いし、気難しい魔術師にも科学者にも見えるものだから、顔だけは重宝しているらしかった。その中身はといえば、生まれも育ちもガラクタ街、小さい頃から灯りの乏しい街並みと皮肉なほど満点の星空ばかりを眺めてきた、夢など忘れて久しい類いの人種である。  彼の商品は、少しの魔術と科学の知識、それにガラクタ街に運び込まれる数多のがらくたで組み上げられる。その商品ときたら、やれ水を流し込むと数時間後に破裂する花瓶だの、枕元で焚けば悪夢ばかり見る香油だの、気を失うほどの痛みと引き換えで履くことの叶う硝子の靴だの、総じて悪辣なものばかり。つい先日など、北街で貴族の奥方を相手に、人工的に生成した太陽の欠片と偽って蛇の目玉を売り捌いたらしい。その夜の蟇ときたらだいぶん上機嫌で、呼び名の由来である蟇蛙のような嗄れ声で「畜生の目玉に金貨三枚とは!」と笑い回っていた。  己の生業の、極めて非人道的であるところは、無論蟇自身も理解している。厭世家な蟇が夢だの希望だの、銀河鉄道だのといった話をする機会は殆どないが、それでも真夜中に遠く響く警笛に、諦めた表情を浮かべることは幾度となくあった。最もそれは蟇に限った話ではない。ガラクタ街に済む者共は、揃いも揃ってそのような連中ばかりである。銀河鉄道に乗る権利を有する、曰く『心の清い』者は稀少だ。お終いまで追い立てられてようやく逃げ込んだ、汚らしくも凍え死ぬことだけはないこの街で、生き抜く術などそう多くはなかったので。  扨、このどうしようもないガラクタ街にただ一人、まさしく銀に光る星の如き、心の清らかな少女がいた。いつも蟇の周囲をひょこひょこと動き回る、銀の眼を持つ少女。呼び名を雲雀と言った。      ◇◇◇  お終いの街に似つかわしくないこの少女は、元々北街出身の、さる貴族の一人娘であった。銀の眼さえ持って生まれなければ、きっと今でも北街に居ただろう。北街に居た頃は、名を竜胆と言った。  この国には本当に時折、軀の一部に銀を持つ子供が生まれる。最も尊ぶべき、救いの色であるとされる銀色をその身に宿した子供はしかし、彼等自身の道行きが幸多いものであるとは決して言い難かった。街行く大人に銀を持つ人が見当たらないことを考えれば、その先はおのずと知れようというもの。だから父親が居たことは、竜胆にとって本当に幸いであった。父親は娘の星の色をした眼を、決して宝石のように扱うことはなかったからだ。眼に映る景色を、喜怒哀楽が滲む様を、何よりその目を持って生まれた娘自身を、欠けることなく慈しんだからだ。例え娘の目が何色であろうと、彼は雲雀を愛しただろう。  幸福はしかし、父が没落したことにより瞬きする間に消えてなくなった。騒動に乗じて、一人娘は遠縁の親戚だか何やら知らぬ人物によって、父親の隣から引きずり出されたのである。年端もいかぬ少女が無事に逃げおおせられたのは、本当に運が良かったからに過ぎない。逃げ込んだ先がガラクタ街であったことも幸いした。とうに救いなど諦めているガラクタ街の住民にとって、銀など今更何の価値も持たないからだ。銀は持たないにしろ、この街には似たような境遇の者も少なくなかった。  兎角、娘は逃げることが叶った。父親との別離は耐えがたいものに違いなかったが、それでも目玉ばかりを至重として宝箱に仕舞われるような末路は避けられたのである。  這う這うの体でガラクタ街に辿り付いた竜胆を、最初に見付けた人物こそ蟇である。走り疲れ泣き疲れ、崩れかけた停車場で踞っていたまだ幼い少女を、背に負ってやり自らのねぐらへと連れ帰ったあの日からそろそろ四年になる。その間に、少女は雲雀という呼び名を得た(春にガラクタ街へ来たことが由来である)。来たばかりの頃は父親を思って泣いてばかりであったが、今はガラクタ街に友人も居場所も沢山できた。髪と背はだいぶん伸びて、少女と言うには大人びた、しかし女性と呼ぶにはいとけない顔でよく笑うようになった。変わらないものと言えばその数奇な目の色と、それに帰る場所くらいのものである。  父親に会いたいかと訊かれれば、竜胆は肯と答える。しかし父親の元に帰りたいかと尋ねられたら、それは少し違う気がすると雲雀は思う。雲雀はもう、ガラクタ街の住民であった。暗闇市場まで行く一番早い近道も、野良猫が集まるお気に入りの場所も、朝日がいっとう綺麗な場所も知っていた。自分の居場所もあった。食べ物も自分の部屋も寝床もあった。何より、此処には蟇がいる。雲雀を助けてくれたその人が。突如現れた見ず知らずの少女に、自分の持ち物を惜しみなく分け与えてくれた人が。だからもう、此処を去る気にはなれなかった。  どうして蟇はこんなにも、温かい場所で居てくれるのだろうと、雲雀はよく考える。生まれついて銀を負わされた雲雀であったから、世の中が善意だけで動かないことには薄々気付いていた。ところがガラクタ街の住民たちときたら、自分らとて薄氷を踏む生き方をしているというのに、何かと人の世話を焼きたがる。蟇などその筆頭だ。  一度、面と向かって訊いてみたことがある。そうしたら蟇はやはり蛙のような声を立てて、「綺麗な鳥は自由に飛び回って居た方がいいだろう」と難しい返答を寄越した。不可解な、けれどむず痒い声色の真意を、何時か理解できる日が来るだろうか。言葉を胸に仕舞って以来、雲雀はその質問をしていない。      ◇◇◇  三日月の大きな夜だった。  西街で中々高額な商品の受け渡しを行った、その帰路である。商品は蟇が作った花の種。咲けば深紅の麗しい花はしかし、猛毒の花粉を辺りに漂わす悍ましい代物だ。吸えば只では居られませんので重々ご注意を。仲介人に蟇はそう告げて、歪な笑みを浮かべていた。  月明かりと星明かりの冴え冴え渡る光に照らされて、ガラクタ街の狭い裏路地には二人分の影が細長く伸びている。楽しげな足取りで前を行くのは何時だって雲雀の方だった。蟇は大概、その二歩ほど後ろを、黒の外套に手を突っ込んでひょろひょろとついて行く。表通りから響く喧噪は入り組んだ世界へ複雑に反響して、二つきりの足音に賑やかな彩りを加えていた。  雲雀が上機嫌なのは、蟇の懐が潤ったからばかりではない。ことガラクタ街においては滅多に手に入らない、焼きたての麦餅が手に入ったからでもない。蟇と外に出た日の雲雀は決まってこうなのだ。この街に来た頃こそ危険だからと連れ出して貰えなかったが、近頃は蟇の荷物持ちとして一緒に外の街に行くことが増えた。近頃北街の仕事が続いていたから、久しぶりの外出となったことも雲雀の足取りを軽くさせた。北街はさすがまだに何があるかわからないと言って、蟇は連れて行ってくれない。  てんで勝手な足取りで踊りながら、雲雀は頭から首までを覆う黒いベールを取り払った。隠していた、銀の眼が露わになる。雲雀のそれは少し青みがかった、夜の海の色をしている。晴れやかになった視界で天を仰げば、月と星々の灯りがその目の中で微笑んでいった。誰もが求める至極の色。誰ぞの邸宅の、宝石箱に坐していても可笑しくはないそれは、今日も無事に在るべき場所へ収まっている。  ずっと向こうにたったひとつ灯っていた、なけなしの光がふつりと消えた。それはそうだろう、子供はもうとうに眠る時間であった。蟇はともかく、雲雀が遊び回るには夜が更けすぎていた。明日はきっと二人揃って寝坊することだろう。いつものことだった。昼頃に起きて、手に入った麦餅を食べるのだ。蟇はたぶん、下階に書店を構える爺さんと、隣の廃屋に住む小さな双子も招く筈だ。蛙のように笑いながら、爺さんにはツケの支払い、双子には出世払いだと言って。  浮かれた歩みのまま、雲雀は道の傍らにある、錆びた螺旋階段に足を掛けた。ギイ、と一歩踏む度に軋むそれにしかし怯える様子もなく、家路への近道を跳ね上る。億劫そうに片足を上げて、蟇が後ろに続いた。 「転ぶなよ」 「転ばないよ」  楽しそうな顔のまま、雲雀が眼下の蟇を見下ろした、その折だった。  地響きと聞き紛う、警笛が夜空に鳴り渡った。  優しく、低く、それでいて高らかなそれに、雲雀は弾かれたように顔を上げる。弔いの歌だ。銀河鉄道だ。雲雀が階段を駆け上がった。カンカンカン、と鉄の鳴る音が忙しない。表情は変えないまま、蟇もその後を追いかける。  階段は終わった。風が吹き渡る屋上は、夜空がいっそう近く見えた。息を切らした雲雀は目を凝らし、そしてほんとうに遠くの向こうの空に、夜にもそれと解る漆黒の車体を見た。屋上の際まで走って行って、崩れかけた柵に飛びつく。星屑の混じった白い蒸気を吐き出すそれが、ゆっくりと夜空を流れていくのを見た。  警笛がまた、世界中に谺すような音で響いた。泣いているみたいだ、と誰かが言っていたのを、夜空に目を奪われながら雲雀は思い出す。誰が言っていたのだったか。父だったか、年老いた家庭教師だったか。蟇ではない筈だ。蟇はそんな、感傷的なことを言わないから。  汽車は見る間に高度を上げ、雲を抜け、次第にその姿を夜に融かし、やがて見えなくなった。大きく息を吐き出して、雲雀はふと背後を見遣る。すぐ後ろには蟇が立っていた。息が上がった様子もなく飄々と、銀河鉄道の居なくなった星空を見上げている。  その顔には懐かしそうな寂しそうな、そしてやはり諦めたような色が浮かんでいた。 「南街かな」 「方角的にはそうだな」  柵から降りようと身を屈めたところで、蟇の手が差し出された。いつも少し冷たいそれは皺と傷だらけの、お世辞にも触り心地のよくない手だ。遠慮無く掴めば加減された力が籠もり、雲雀の体はひょいと荷物のように持ち上げられる。両足は地面になんなく着地した。それをしっかりと見届けた後、蟇の手は離れる。  外套の中に潜っていく手を見届けてから、雲雀はまた空を見上げる。幻想の帳の下りた夜空は、光に満ちていて楽しげだった。三日月は揺りかごの形をしているから、これからまあるく明るくなる。北街の家々の上に浮かぶ、赤みがかった星の名前は火掻星。天上の真ん中でじっとしている錨星は、何時いかなる時も動かない。――ガラクタ街に来てから、蟇に教えてもらったことだった。 「銀河鉄道に乗ったら、もっと近くで星を見られるのかな」  何も言わずに佇む蟇に、訊くともなしに訊いてみる。急かすでもなく、文句も言わず、いつもこうして付き合ってくれる蟇のことを、雲雀は本当に好いていた。どんなにくだらない質問だろうと、必ず答えてくれるところも。  この時も蟇は少し背中を丸めた姿勢のまま、星にすら代えがたい銀の眼を見詰めて「そうさな」と呟いた。 「最新の学説では、星とは砕けた鉱物の集まりだそうだ」  くだけた、と鸚鵡返して雲雀は首を傾げた。蟇は外套から右手を出すと、親指と人差し指を広げて「このくらいのな」と続けた。 「このくらいの欠片が、引力とかいう力で寄り集まっているらしい」 「そんなに小さな欠片が、あんなに光るの?」 「数え切れないほどの欠片が集まっているのなら、きっとあれほど光るのだろうよ」  そう言いながら、蟇は夜空を見上げる。鈍色の眼は銀のそれほど、星明かりをよく映さない。 「時折、星を構成する欠片が地上に落ちてくるらしい。人の身に銀が宿るのは、そういった理屈なのだそうだ」  ふらりと、蟇の手は夜空を泳いだ。  中指の先に一等星だか二等星だか、仄白い星を引っ掛けるようにして、骨と皮ばかりの右手は上を向く。横で見ていた雲雀だったが、やがてその様を真似て、満点の星空に向かって手を伸ばした。天上は相変わらず遥か彼方に在り、地上での不平不満なんぞきっと、一寸も聞こえていないのだろうと思われた。だから綺麗なのだろう。だから人は、星の銀に焦がれるのだろう。  隣から鼻で笑う声に、手は伸ばしたまま、雲雀が顔を傾ける。蟇が嗤っていた。蟇蛙の声で。星空とはおよそ縁遠い、地上で這い回る畜生の笑い方で。 「乗れんよ、俺は。俺のような、とうに善悪にも倫理観にも頓着しなくなってしまったような輩は」  折角伸ばした手を、しかし蟇は下ろしてしまった。星空はますます遠ざかった。 「銀河鉄道には心の清い者だけが招かれる。今生、無縁の場所だ」  つられて、雲雀も手を下ろしてしまう。自分のそれより随分高い位置にいる痩せこけた顔を見上げて、なんだか泣きそうになった。投げやりな声色の所為か、言葉の所為か、それとも蟇の表情に、何時もとは違う何かが見えた所為なのか。蟇は時々難しくて、雲雀はそれをもどかしいと思っていた。何時か、今夜のことも理解できる日が来るのだろうか。 「お前は乗れるよ」  視線を落として、蟇が囁く。嗤った声とは打って変わった、珍しく穏やかな声色だ。目の奥に熱を湛えてしまった雲雀に、おあつらえ向きの音をしている。引っ込め損ねていたらしい右手が、雲雀の髪にほんの少しだけ触れた。 「お前ほど相応しい者もいなかろう。星の欠片の、美しい子供だ。乗れるよ、お前なら」 「蟇、も」  たまらず声を上げた。落涙を堪えていた所為で、少しうわずった声になった。 「蟇だって乗れるよ、きっと。一緒に乗って。星の名前を教えて、いつもみたいに」  不器用に唇の端を上げて、蟇は微笑んだ。その口は肯定も否定も発しない。  風が冷えてきた。今夜はきっと、今年一番の冷え込みになる。さすがに蟇が「帰るぞ」と促すと、雲雀はちょっと赤くした目で小さく頷いた。  雲雀が歩き出す。少し遅れて、蟇が後ろに続く。  屋上から屋上へ、道とは言えない道を渡り歩く足音が二つ。表通りは相変わらず宵っ張りな大人共が往来しているようで、足下から喧噪が伝わってくるのが不思議だった。 「やあ、花咲星だな」  ふいに蟇が呟く。足を止めて雲雀が振り返った。  遠く地平線に丁度腰掛けるような格好で、ひときわ大きな星がひとつ、銀を零していた。少し青みがかったその星は、天上に至ると春が来ることからその名がつけられている。 「お前の目は、あの星の欠片から出来たのやも知れんな」  なんだか満ち足りたような顔をして、蟇はしばらく星を見詰めていた。      ◇◇◇  夕刻からぽつりぽつりと降り始めた雨はやがて勢いを増し、日が沈む頃には霙混じりの冷たい雨が街を穿つ土砂降りとなった。  ガラクタ街の荒くれ者どもすら寝静まる真夜中。雲雀は一人、人影ひとつ見えやしない夜の街を、傘を差し足下を確かめながら歩いていた。こんな夜更けだというのに、蟇はまだ帰ってきていない。北街への用向きであったから、例によって置いて行かれたのだ。それにしたって遅すぎた。傘は持って行っていない筈だから、何処かで雨宿りでもしているのだろうか。近頃流行のラジオとかいう絡繰りが、今日は一日快晴だという嘘八百を高らかと流した朝を思い返す。  ガラクタ街の中であれば、雲雀一人でも歩き回ることができる。雨宿りの出来そうな場所を、ひとつずつ当たってみるつもりだった。こんな冷たい雨の中、もしかしたら濡れ鼠になっているのかも知れない。止まない雨に途方に暮れているかもしれない。なんだか底知れない、気味の悪い予感がしていた。傘を持つ手に力が入る。  粗悪な舗装の所為で道の彼方此方に出来た水溜まりを避け、不規則に点滅する僅かな電灯から電灯へと歩みを進める。屋根の張り出した裏路地から新市街へと伸びる大通りに差し掛かったところで、雲雀は不意に足を止めた。路地ひとつ分向こう側に、四つの影が佇んでいる。人だ。おかしい、と雲雀は眉を顰めた。ぼんやりと見える山高帽、あれは北街の人間が被るものだ。こんな時間に、北街の人間がガラクタ街などに来るわけがない。  後ずさり引き返そうとした雲雀だったがしかし、山高帽のひとりが彼女を見付ける方が早かった。ぬるりと生気のない顔が、雲雀を、その顔を見た。見てしまった、銀の眼を。雨でも決してぼやけることなく、夜は一際明るく弾ける、幸いの色を。  山高帽の男の、無表情がずるりと剥がれ落ちた。はじめ驚愕が広がり、次に歓喜に、そしてどす黒い怨嗟へと転じた。息を飲んだ雲雀に、震える指先が突き立てられた。 「〝アルキオネの貴石〟」  残りの四人が、咳き込むように顔を上げた。  唸り声を上げる八つの暗い目に射止められて、雲雀は進むことも下がることも出来なくなった。アルキオネの貴石。その呼称を、雲雀は――竜胆は知っている。嗚呼、と息を吐きながら思い出す。その呼称を使っていた連中が、一体誰であったかを。そしてその呼称は竜胆を、ましてや雲雀を、人間を指し示すものでは決してないということも。  彼等が欲するのは、銀に輝く二つの小さな星のみ。  先に動いたのは山高帽たちの方だった。雲雀の足は、やはり動かない。怖気ばかりが背筋を伝う。どうして。どこで。何時知られた。何故此処が解った。否、解っていたことだ、知られる機会など何処にでもいくらでもあった。四年も無事で居られたのは、蟇が守っていてくれたからだ。蟇、蟇はどこだ。蟇は無事なのか、まさか。  近付いてくる。足は、まだ動かない。初めに目の合った男が、濡れそぼった外套を翻して歩いてくる。三人の人影がどろりと動いてそれに続く。動けない。先頭の男が右手を翳した。  電灯の無機質な光に、仄白い手が浮かび上がった。血管の浮き出た手が。血の気の失せた指先が。光を受けて鈍く鋼の色を発する、懐剣が。  やっと体が動いた。強ばった指先が服の内側に滑り込み、温まった硝子の小瓶を引っ張り出す。懐剣が放物線を描く、それよりも少し早く、雲雀が小瓶を地面に叩きつけた。小瓶が星のように砕け散るのと、そこから金色(こんじき)の焔が躍り上がるのは殆ど同時であった。一瞬のうちに炎は渦巻き、辺り一帯に広がると小気味よい音で燃え上がった。山高帽たちはどよめき、呻いて、雲雀から大きく飛び退いた。先頭の男もまた、しかし懐剣は手放すことなく、聳動の面持ちでもがきながら一歩後ずさる。その様を横目で見届ける暇も惜しく、傘を投げつけた雲雀は暗い小路へと潜り込んだ。  今の小瓶は、蟇から預けられていた御守りだった。蟇にしては珍しい、まだしも心優しい部類の商品でもある。砕くと炎が噴き出す魔法の小瓶――というのは嘘で、実際は魔術と科学で作られた、炎のまぼろしを見せるまやかしの装置だった。しかしここが蟇らしいところで、見る者が本物の炎だと認識している間は、熱も熱風もきちんと肌に感じるというやはり厄介な代物である。  長くは持たないことは、雲雀にもよく解っていた。あれはあくまで目くらましだ。安全なところまで逃げなければ。蟇のところへ。それが出来なければせめて自分たちの根城へ。それすら叶わないのなら、せめてガラクタ街の友人たちの元へ。勝手知ったる、しかし雨の所為でいっそう隘路な道を、道端のガラクタを蹴り飛ばしながら走る。  旧大通りへ差し掛かったところで、脇道から二つの影がのたうち出てくるのが見えた。雲雀の方角を指し、何やら怒号を上げている。霞んだ目に山高帽のシルエットが映って、雲雀は嗚咽を堪えながら唇を噛んだ。もう追いつかれた。一人はあの、懐剣を持った恐ろしい面貌の男だった。ほとんど転びながら、雲雀は旧大通りを突っ切りまた小路へと逃げ込んだ。雨夜に掻き消えそうな足音が、背後から二つ分響いてくる。  突如、雨音すら劈く破裂音が、四方の空気を揺るがした。同時に雲雀の前方で、力なく瞬いていた電灯が耳障りな音を立てて崩れ、消えた。驚愕して、首だけひねって後ろを見遣る。懐剣を持ったのとは別の男が、小さな筒のようなものを雲雀に向けているのが辛うじて見えた。拳銃だ、と雲雀は歯を食いしばる。以前、蟇が教えてくれた。最新の科学技術の結晶として生まれた、いとも容易く人を殺すことができる道具だと。  また銃声が鳴った。今度は雲雀の右前方、道の傍らに投げ出されていた一輪車の、半分潰れたタイヤが吹っ飛んだ。みっつめ。右後方の窓硝子が叫声を上げた。家の中からくぐもった悲鳴が飛ぶ。よっつめ。左の路地に逃げ込んだ雲雀を掠め、薄い壁を粉々にする。破片が顔に当たった。いつつめ。路地を駆けた先、足下で地面が固い音を立てた。むっつめ。  銃声と同時に、突き飛ばされたような衝撃を受け、雲雀の体は大きく宙を泳いだ。  甃の上、水溜まりに倒れ込む。焦りながら顔を上げ、肘を突き、体を起こそうとする。けれどどうしてか力が入らない。軀に染み入ってくる水は本当に冷たい筈なのに、なんだか無性に、内蔵の真ん中辺りが焼かれたように熱い。立たなければ、と思うのに、足は力なく飛沫を上げてもがくばかり。指はがりがりと道を引っ掻く。二つ分の足音は次第に距離を詰め、泥水を跳ね上げ、やがて倒れた雲雀の傍らで止まった。  点滅し始めた眼で、雲雀は男たちを見上げた。怨恨を煮詰めた男の目に、血を流す自分の姿が映されているのを見た。  撃たれたのだと、その目を見て雲雀は理解した。 「……漸く」  窶れきった形相で、懐剣の男が雲雀を見下ろした。  腕を掴まれ、臥した軀を仰向けにひっくり返される。臓腑の軋む痛みに喘ぐ雲雀の顔が、深い傷を負ってなお美しく輝く銀の両眼が天上を向いた。雨雫が撫でていくその顔を、銀を、男が音も無く覗き込む。蟇に逢いたいな、と雲雀はふと思った。こんな、こんな苦しい時に見る顔は、こんな見知らぬ男ではなくて、蟇であって欲しかった。銀を品定めするような目ではなくて、風邪を引いた雲雀を呆れながらも心配するような、そんな眼差しがそこに居て欲しかった。 「漸く、漸く、漸く貴石が手に入る。何年探したことか。何度膝をついたことか。北、西、南と駆けずった。塵捨場の蓋すら開けて回った。四年だ。解るか、銀を宿した子。数奇な不幸な憐れな子供よ。四年、四年だぞ」  罅割れた唇が呟いた。  傍らに跪いて、男が空いた手を伸ばす。怒りのためか、それとも他の感情故か、戦慄く手はじりじりと這い寄り、雲雀のほんの眼前で動きを止めた。雨垂れの滴る人差し指は、右目の真上で震えている。このまま目を抉っていくのだろうかと、雲雀はその指をただただ見詰めながら思う。抗う力も、指を伝って落ちる雫に瞬きをする力さえ、今の雲雀にもはやはない。  手は、しかし数呼吸の後に離れていった。跪いたままの男が、両の手で懐剣を確と握る。 「……案ずるな、銀を宿した子。お前は乗れるよ、銀河鉄道に」  怨讐ばかり見せていた顔が、一時、諦めたような悲しげな色をした。 「お前は銀河鉄道に乗り、銀の彼方の浄土へと行くのだ。――私が行くのは暗い沼底だろうよ。もう二度と逢うことは無い」  その投げやりな口調はよく知っている。お前は乗れるよと言って笑う、蟇の口調に酷く、よく似ていた。どうして大人は誰も彼も、そうやって下手くそに笑ってばかりいるのだろう。今此処に居ない人を思って、雲雀はぼんやりと天上を仰いだ。男の顔を、天高く翳され、惨たらしい色を曝す懐剣を見た。  閃いた刃に、青い光が反射した。  星が落ちてきたのかと雲雀は思った。星よりもずっと青い、星だなどと評するにはあまりに優しくない音で、雨夜空から火球がひとつ、ふたつ、みっつ降り注ぎ、ひとつは火の粉を散らして男の真横に墜落した。低く叫びながら、男たちが視界から消えていく。間髪いれず、天上に再び飛翔物体が現れた。今度のそれは真っ黒い影で、屋根をがらがらと派手に蹴散らしながら、雲雀と男たちの間へ荒々しく降り立った。  のたうつ青い炎に、見慣れた背中が照らされる。  蟇、と呼んだ雲雀の声は、魔術で作られた摂氏千度の炎が怒り狂う音に、敢え無く呑まれて消えていった。  辛くも焼尽から逃れた山高帽たちは、家一件分ほど離れた場所で、浅く呼吸をしていた。一人が掠れた声で、灰蛙、と呟く。各々武器を構えてはいるが、火傷を負って爛れたその顔には、隠しがたい恐怖が滲む。  蟇が右手を掲げた。古い呪いを諳んじる声が、炎の絶叫に混じって微かに雲雀にも届く。蟇の掌すら焦がしながら生まれた絶望の青色は、ごうごうと渦巻いて、捩れ、膨れ、そしてついには忌まわしい産声を上げて、標的への道を迸った。懐剣の男は間一髪、髪を焼かれながら地べたへと倒れ込む。逃げ遅れた拳銃の男は、右手に持った拳銃ごと、炎の牙に噛み付かれる。長い長い絶叫が、ガラクタ街に響き渡った。 「雲雀――」  その地獄のような光景には目もくれず、蟇は踵を返すと雲雀に駆け寄った。半ば崩れ落ちるような格好で雲雀の傍らに至り、抱きかかえ、抱え起こす。 「雲雀」  焦点の合わなくなってきた目で、雲雀は蟇を見上げる。さっきからずっと見たいと思っていた顔は、火傷や傷だらけで、ぼろぼろで、なんだかひどくぐしゃぐしゃだ。  遠くから弱々しい呻き声が上がった。右手を焼かれた男が、壁に手を突いて立ち上がる。しばらく荒い息を吐いていたが、何やら忌まわしい言葉を吐き捨てた後、不確かな足取りで立ち去っていった。懐剣の男が後ろ姿に何か叫んでいる。蟇はけれど、まるで其方を見ない。  雲雀、と蟇の声が呼ぶ。体を支えてくれている手に、痛みを覚えるほどの力がこもる。雲雀、と蟇が叫んだ。雲雀の体に縋り付くようにして、その胸元に顔を埋めた蟇が、雲雀、雲雀、と狂ったように哭いた。 「殺してやる!」  闇夜を揺るがして蟇が吼えた。濡れた顔を上げて、まだ逃げずに居る懐剣の男へ、ありったけの悲しみと怒りを込めて蟇が哮った。 「殺してやる、殺してやる殺してやる殺してやる! よくも雲雀を、よくも俺たちの星を、幸いを、願いを、俺の、俺の雲雀を――!」  叫ぶ度、眼からぼろぼろと人肌の雫が零れ、雲雀の額のあたりを撫でていく。激昂する感情に応じようと、地面を舐めていた炎がゆっくりと身を起こした。口を開け、両手を広げ、その腕(かいな)に仇を収めようとしていた。鈍色の筈の二つの目は炎の底冷たい青を受けて光っていて、まるで銀のようだと雲雀は思う。  蟇、と呼びかけた声は、今度は咆哮に掻き消えた。 「お前楽に死ねると思うなよ、この灰蛙を相手に只で済むと思うな、ひと息にこときれさせてなどやるものか、殺してやる、殺してやるぞ! よくも――」 「――蟇」  世界を呪う声が止まった。  ゆっくりと、蟇が雲雀を見下ろす。やっと応えてくれたと、雲雀は安堵の息を吐いた。まだ少し銀色の名残を残す面差しに向かって、途切れ途切れに雲雀は囁いた。 「蟇、殺さないで」  虚を突かれたような顔をして、蟇は束の間、言葉を失う。ようやっと絞り出した、なぜ、という問い掛けには応えず、雲雀はもう一度「殺さないで」と乞うた。  雨に打たれても消えなかった炎が、見る間に白煙を上げて小さくなっていくのが見えた。取り巻いていた風が、熱が、夜の大気に溶けて無くなっていく。心底解らない、という顔をして、蟇は雲雀を見詰めていた。足音が微かに響いた。男が逃げたようだったが、蟇も雲雀も、そちらに目を向けることはなかった。 「なぜだ、雲雀、どうして」  擦れた声で蟇が問う。狂った怒りはとうに消え失せ、今はただ、はりつめた悲嘆だけを湛えていた。泣きじゃくった後の子供みたいな顔だ。その顔が少し可笑しくて、雲雀は力の入らない口許で微笑む。 「蟇、殺さないでね――恨まないで。憎まないで。私の為に悲しんでくれるの、莫迦みたいだけど、嬉しい。けど、どうか殺さないで。そうでないと」  もう感覚のなくなって久しい腕に、それでも意識を向けてみる。鉛のようなそれを持ち上げ、手を伸ばした。涙の伝う顔に向かって。星の向かって手を差し出したいつかの夜のように。星に手なんて届かないけれど、けれど目の前の大切な人にこの手は、ほら、ちゃんと届くのだ。傷だらけの肌に触れる。冷えゆく指先で、濡れた顎のあたりを擽った。 「蟇、私の所為で、銀河鉄道に乗られなくなってしまう」  鈍色に戻った目が、大きく見開いて雲雀を見た。  いつの間にか、深夜の静寂が周囲を覆っていた。騒々しすぎて聞こえなかった音が、雲雀の耳に戻ってくる。蟇が身じろぎをする音。顎に触れていた指先を、自分のそれで掴んできゅうと握る音。涙がはたりと落ちる音。次第に緩やかになっていく、自分の心音。  目の前の蟇は相変わらず涙を流していたが、やがて穏やかな表情になった。泣き腫らして赤くなった目はそのままに、蟇は小さく、けれど屈託の無い笑いを浮かべてみせた。つられて雲雀も笑う。乾いた唇で蟇を呼ぶ。 「一緒に、銀河鉄道に乗ってね。私、待ってるよ」 「……ああ」 「星の名前、ちゃんと教えてね。私、まだ、春の星の名前は三つしか覚えていない」 「……そうだったな、春は雨が多いから」 「あれが見たいな、春風が吹く頃の、金色の星」 「東風の一等星だ」 「そう、それから、なんだっけ」 「どの星だ」 「美味しそうな、星」 「それはお前が勝手に林檎星だなどとつけた星だろうが。猩々星だ」 「だって、林檎みたい、だから」  蟇が小さく、蛙のような笑い声を立てた。体に伝わる振動を心地よく思いながら、雲雀は静かに目を閉じた。数奇な、美しい銀に、長い夜が訪れる。  いつの間にか、雨は止んでいた。灰色の雲は静かに流れ去り、遥か天上では星々が、雨に洗われたばかりの滲んだ色で瞬く。遠く、彼方から、愛し子を悼む弔いの汽笛が鳴り響き、夜のガラクタ街を厳かに揺り起こした。
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