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瞬時に考えた。誰か、いたのか――、聞かれた?
他人には、アカネの声は聞こえない。修哉ひとりの話し声のみ。相手もおらずにひとりでしゃべっているように思われる。
誤魔化すのに慣れた手つきでスマートフォンを左手で取り上げ、耳に当てる。
アカネは修哉の背後に移動していた。鏡には写らないので、なにをしているのかはわからない。
「――シュウ」
離れたところから声がした。左耳だけがアカネの声をとらえる。聞こえる、のは正確ではない。この声はおそらく鼓膜を通らない。直接、耳の奥に彼女の声が届く。
ただ、アカネが遠ざかるとそのぶん声が聞こえにくくなる。小声に聞こえる。
「なんですか、アカネさん」
振り返ると小便器の対面に設置された、奥のほうの個室の扉が目に入った。おかしなことに、人が動く衣擦れも聞こえず、生きた者の気配を感じない。
閉じているはずの扉が、不快なきしみを響かせる。
開く、――ゆっくりと。
こちら側へと十センチほどの幅を空け、ゆうらりと前後して止まった。
扉の白い塗装面から唐突に現れる。突き抜けて出てくる。
見えるのは妙に焦点が定まらない、ぼやけた姿だった。特に足元が霞んでいる。
地面から離れ、浮く姿。
瞬時に、さっきの、と察した。
座敷が連なる通路に、ぼんやり突っ立っていた紺のエプロンを着けた中年の店員。疲れ切ったようすの、暗い顔。張りがなく、だらんと垂れた頬の皮膚。
ぞっとするような肌の色だった。生気を失った灰色。修哉は目の前にいるものについて、情報がひとつに繋がるのを覚えた。あの腕の、――畳の上に転がっていた――あの虫みたいに蠢く手の持ち主だ。そして、やはり向こう側が半ば透けて見える。
あの手は、梶山に消されたものと思っていた。どうやら違ったらしい。
なぜか、霊は強い生命力に当てられるのを嫌がる。アカネ曰く、生者は自然と強力な防壁を持っているもの、らしい。だから知らずのうちに霊のほうが退散するので、おたがいに関わり合わないのがふつうだった。
いろいろ視てきたなかでも、ひときわ尋常でない活力——霊にとっては破壊力――に満ちているのが梶山だった。先日のバイト帰りに偶然、梶山が道の片隅に吹き溜まった霊の群れに突っ込んで行って、無自覚に蹴散らしているのを視た。
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