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正面で、分厚い金属を甚大な力で押し潰すような強烈な音が立つ。続いて左右から回り込み、不快な鳴動が狭い空間で幾重にも反響する。
思考力を奪われる。頭の中に白い霧が立ちこめていくようだった。
ただ身をすくめ、耐えるしかなかった。
圧縮され、限界までにひしゃげる低音は急激に音階を上げていく。
ひときわ音域が高まるにつれ空気が共振を起こし、肌を、肉を、内臓を、心臓を激しく震わす。
高音から可聴の域を越える。ふいに無音の震えが途絶えた。
美しく、透明に澄んだ音域が訪れ、場の空気が変わる。大気を尖らせてなおも攻撃を続けようとする空間を、音律が裏から表に返し、包み込んで小さく縮めて平らかに落ち着けていった。
服を着ているのに透過して、清冽な冷気が肌を撫でる。静電気に似た感触。真正面から背後へと抜け、刺激で身震いが起こる。
奇怪な現象をすべて消し戻し、やがて微かな名残りと化す。
きれいな金属音を放って弾け——、
四散して、ついに霧消する。
我に返り、おそるおそる目を開いたときには、正常が映った。
「——え」
間の抜けた声が転げ出た。拍子抜け、まさにその言葉の意味を噛みしめる。
あんなに凄まじい破壊の音がしたのに、周囲は無傷のまま、そこに在った。
換気扇のモーターと風切り音がかすかに響いている。
「なによ、今回はほとんど戻したから、なんともないでしょ」
「……もどした」
腰に両手を添え、アカネがあきれ顔でこちらを見やり、なにまだ呆けてんのよ、と言う。
頭に霞みがかかっている。
「あれ——って、……やっぱりさっきオレが視た霊?」
左右に数回、頭を振って血の巡りを戻す。次第に思考が冴えてくるのを感じた。
そうねぇ、とアカネが左頬に手を当てて考え込む。
「あの場所で、憂さ晴らしに自殺でもしちゃったのかもよ。ブラックな仕事量で病んじゃったとか、職場イジメにあったとか」
アカネの思いつきは不穏だ。まさか、死人が出た場所を客に使わせるものだろうか。
「それじゃ死後も店に縛られてうろついてるの、おかしくない? いまだに仕事こなしてるつもりっぽかったし」
「じゃ勤務中に、ふつうに発作起こして病院で息絶えでもしたんじゃない? 本人は気づいてなくて、まだ働いてるつもりなのよ。よくわかんないけど」
ふつうって、何だ。
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