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急激に平衡感覚が失われるようで、目の前がぐらりと傾いだ。なんで、忘れていたんだろう。
「シュウ、おまえ……あの頃は大変だったから」
梶山の声を聞きながら、記憶が巻き戻るような感覚があった。
陰鬱な気配が落ちる。暗い夜の、雨の音。濡れたアスファルトの匂いがする。
車の走行音がする。足元から渦巻いて立ちのぼる、聞きたくもない雑音。
「……昔を思い出して、聞いていられなくなったんじゃないのか」
頭の中がざわつく。
「いや、……そんなことはないよ」
うわの空なのに、無意識のうちに言葉を返している。
凍てついた氷が融けて地表が出てきたかのように、忘れていた記憶が頭をもたげる。
今はもう、ずいぶんと折り合いをつけられるようになったと思っていたのに。
火を消すには、水が必要だ。火災ならば大量の水が要る。
流れる濁流が嫌いだ。暗い夜の、雨で増水した川が駄目だ。
眺めていると地獄の淵を覗き込んでいる気分になる。畏怖があふれてまとわりつき、引きずり込もうとする。
下方に恐ろしい表情が見える。手を伸ばしてきて、足首をつかみ、すくわれる。倒れて動けなくなっているところを、闇が波のように近づいてきて肌を舐め、飲み込まれる。
真っ暗で苦しい。心臓が早くなって、爆発しそうになって、死にそうになる。空気を吸い込んでも呼吸ができない。自分が崩れていく。
ありえないとわかっていても、幾度も夢に見た。
過去に何度も失態を重ねた。他人から見れば、どうということもない濁流を怖れるあまりに。
だから、当然と言えばそうなのかもしれない。だから梶山は心配したんだ。
急激に自覚する。他人が死んだ火災よりも、よほど重大だ。そう、あの出来事。
梶山はそれを知ってるからこそ気にしてくれる。ガキのころからずっと、幼なじみとして近くにいて、なにが起こったかを知っているからだ。
梶山は修哉を眺め、喉に引っかかったものを飲み込むか、吐き出すか迷っているような表情をしていた。
「シュウ、また事故に遭ったんだってな」
え、と声が出た。予測しなかった問いに、意表を突かれた。
「なんで――それを?」
「聞いたんだよ、弟から。去年の秋にまた死にかけたって話、カズから聞いたって」
「あいつ……なんでオレのことしゃべり回ってんだよ」
「兄貴を心配してんだよ、当然だろ」
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