65人が本棚に入れています
本棚に追加
第一章(2)…… 居酒屋の中年男
修哉は立ち上がった。
え、なに、と井上が見上げる。
「ごめん、ちょっとトイレ」
スマートフォンを手に移動する。上がりかまちを降り、用意されていた下足を引っかけて、急ぎ足で店の出入り口に戻る。
店外には出ずに、通路を左に折れてカウンターと四人席が並ぶ奥へと進む。
すれ違うと肩がぶつかる幅の通路の先に、扉がふたつ並ぶ。突き当たりにもうひとつの扉があった。扉のやや上部、目の位置に金属プレートがあり、スタッフルームの英文字が入っている。
手前の扉には男性、奥の扉には女性のマークが一目でわかる位置にある。扉を引いて中に入った。
店内は木調で内装に工夫がうかがえたが、ここは白が基調でごく平凡に映った。入って右に洗面台がふたつ、その奥に個室がふたつ。対壁に設置された、人ひとりが隠れるほどの衝立の向こうに小便器が並ぶ。
ちょうど無人だったようだ。
洗面台の前に片手をついて、うつむき、ひとつ溜息を漏らす。
「頼むよ、アカネさん」
ああいうの困るんだ、とこぼす。
「ただでさえ最近、オレがいると妙な現象が起こるって陰口叩かれてんだからさ」
真上から逆さの女の顔が下りてきて、修哉を覗き込む。
「ごめんって言ったでしょ、隣にいたから思わず触っちゃったのよ」
「約束しましたよね、絶対に回りにちょっかい出さないって」
だぁって、と不満げに口を尖らす。ちょっと鼻にかかる、明るく澄んだ声。
「あれは不可抗力でしょ。あんな話聞いちゃったら、どんな感じのお仲間が近所にいるのか気になるじゃない」
「なに言ってんですか」再び、溜息を吐く。
「しょっちゅう出くわしてて珍しくもないでしょう。そもそも、アカネさんはオレにくっついてるんだから、ひとりで見に行くことはできないじゃないですか」
「一緒に行けばいいじゃない」
「厭ですよ、冗談じゃない。なんで好きこのんで、わざわざ面倒に首突っ込まにゃならないんです?」
ええー、とむくれる。
「いざとなったら、ほら、上げちゃえばいいんだし」
その言葉に、修哉はさらにうんざりした顔をする。
「やですよ……その気もないくせになに言ってんですか。それにアレ、後がすげえ大変なんですからね」
アカネさんはいいかもしれないけど、下手すりゃオレは深刻な傷手を負う。
ふいにトイレの個室から物音がした。え、と顔を上げる。
最初のコメントを投稿しよう!