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序章 …… 憑いてきた女
限界まで踏み込むブレーキ音が、けたたましく周囲に響き渡った。
平穏な早朝のはずだった。事故が起こる、その予測が現実となる。右正面の二台が交差するのを目撃する。
初心者らしく教えどおりに赤信号へと変わる前に減速し、きちんと停止線を守って停車した。山間の低地から、ちょうど眩しい朝日が差し込む。目を細め、軽い眠気にあくびをかみ殺していた、その時。
対向から近づく黒い車に減速する気配がない。信号を無視して通過しようとする。
青信号で直進する車も、高速で十字路に進入する。
双方が気づいた時、ブレーキを踏んでも遅い。激突する音は凄まじかった。破壊の轟音が正常な判断を微塵にする。
直撃を食らったシルバーのセダンが、跳ね飛ばされて半回転し、後退しながらぶっ飛んでくる。脳の処理が追いつかず、時間が引き延ばされたかのように感じる。車の接近がやけに遅い。
テールランプのカバーが破損して、剥き出しの光源が目に入った。半円の曲線を引いて視界に焼きつく。
瞬時に巻き添えを察知する。逃れられない。
身体が硬直し、車内の音楽が聞こえなくなる。
ヤバい、死ぬ、そう思ったとき、無意識にハンドルを切っていた。
真横で爆弾が炸裂したかのような衝撃を食らう。誰もいない後部座席が瞬時に押し潰され、車体がひしゃげて大破する。
派手に弾き飛ばされ、ふたたびシルバーの車体に追突される。押しやられた先にあったガードレールに挟まれて、ようやく車は停止した。
故障を伝える音が車内に反響する。歪んだ車が発する軋みが、まるで瀕死の訴え――断末魔のようだった。いまだ止まらぬ連続音が、自分の鼓動と呼吸だと気づく。
耳鳴りがする。なにも考えられない。身体が痛いような気がする。
急速に目の前が暗くなり、気づくと病院の個室にいた。気絶しているあいだに救急車で運ばれたらしい。
のちに警察から聞いた話では 車通りが少ない早朝だったおかげもあって、横断歩道を渡る歩行者はいなかったらしい。
下手すれば通行人を巻き込んでたかもしれないと聞いて、背筋が凍った。自分のミスでもないのに殺人の咎なんか背負ってたまるか。なにもなく済んで、安堵したのは事実だった。
見舞いに来た家族が、スライドドアを開けて病室に入ってくる。父親は「関わった全員が軽傷ですんだのは良かった」と言って笑った。一方で母親は、自分が事故に遭って怪我が痛むかのような顔つきをしていた。
ベッドの上に起き上がって、こんなことになって申し訳ないやら、気恥ずかしいやらで笑ってごまかそうとした。
母親のこちらを見つめる表情がみるみる崩れる。意表を突かれた。大号泣しながらすがりつかれる。小さな子どもを相手にしているかのように心から心配する声をかけられ、ちっとも離れてくれない。まるで自分はもう、棺桶に収められているのかと錯覚しそうになったほどだった。
ふたつ下の弟は、対照的な両親の反応を困り顔をしながら個室の入り口付近で見守っている。
もらい事故に遭って、運がいいはずもない。それでも心配してくれる家族がいるのはありがたいと心から思えた。
しかし、内心は穏やかでなかった。
見知らぬ天井があって状況がつかめずにいた、あの日。
ああ、生きてる、とぼんやり考えていたところに、妙に色白の、きれいな顔をした見知らぬ女がこちらを覗き込んできて、
――あたしが助けなければ、あんた死んでたんだからね!
真剣な眼差しで、そう言ったのだ。
そして今も、傍らに立ってこちらを眺めている。そして、家族はそんな彼女にまったく気づかないのだった。
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