新春のあいさつ

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――春だで。起きなっせ。  穏やかな声にうながされ、マサジは目を開いた。暖かく乾燥した穴ぐらの中に、他のクマの姿はない。さては先祖の声に起こされたかと、なまった体を伸ばしながらマサジは思った。  冬ごもりの穴を出ると、あたりはうららかな光に包まれていた。マサジは湿った鼻孔を差し上げ、いっぱいに吸い込んだ。木々の芽吹きに雪解けの川。昨年積もった落ち葉が、どこかのぬかるみで腐っている。豊かな香り。春の香りだ。  しばらくうっとりと楽しんでいたところに、腹の虫が騒ぎ出す。マサジはうーんと伸びをしてクマザサの茂みに分け入った。無心にむさぼっていると、けもの道の向こうから小麦色のキツネが駆けてきた。 「クマの旦那! 初春(はつはる)おめでとがんす」 「おおヨシツネ。初春おめでとう」  マサジは食事を中断し、あいさつを返した。古馴染みのキツネはつやつやの毛並みも変わりなく、元気そうだ。無事に冬を越したらしい。 「嫁コとわらっしゃどさ元気か」 「おかげさまでがんす。また、様子さ見に来てごせ」  食事中のマサジをおもんばかってか、あいさつを済ませたヨシツネは「では、これで」と去って行った。  マサジはさらに食べて用を足すと、今度は川に向かった。  道すがら、大きいのも小さいのも、飛ぶものも這うものも、けものたちがマサジにあいさつの声をかける。冬ごもり明けに初春を(こと)()ぐのは、同じ山に住むけものの礼儀だ。 「マサジどの、初春おめでとうございます」 「初春おめでどうごし」  クマとしては若輩のマサジだが、なにせこの山で一番図体が大きいので、どの動物も恭しくあいさつをしていく。マサジも丁寧にあいさつを返した。  ちんと冷たい川の雪解け水を飲むと、マサジはすっかり満足した。水の中ではマスたちがぴんぴんと泳いでいるけれど、まだ漁をする気にはならない。穴ぐらに戻ってもうひと眠りするかと思ったそのとき、風に乗って妙な臭いが運ばれてきた。甘いような、その裏ではひどく酸っぱいような、ひと言でいうと嫌な臭いである。 「はあ、また腐れ丘が臭ってるな」  マサジは少し迷ったが、臭いのする方に足を向けた。
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