「ありがとう」

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俺は目覚める。 枕元にはプレイヤーが置いてある。 手を伸ばし、力を込めて再生ボタンを押す。 仄かな雑音が流れた後、とある曲が響き始める。 俺は思い出す。 この曲って、父さんが好きだったな、と。 それはまだ俺が小さい頃、父さんと車に乗っている時によく流れていた曲だった。 スマホが(かす)かに震え着信を知らせている。 スマホを手に取って電話へと出る。 弟からの電話だった。 弟は興奮したような口調でこう告げる。 ついさっき、子供が産まれた、と。 母子ともに無事だったと。 ごく自然に、俺の口から言葉が流れ出る。 「おめでとう」 興奮気味に語っていた弟は急に黙り込んだ。 弟が抱く困惑の気配が電話の向こうからじんわりと伝わってくる。 どうした?と俺は問い掛ける。 弟はためらいがちにこう告げる。 「いや…、兄貴がそんな素直に  『おめでとう』って言ってくれるなんて、  珍しいなと思ってさ」 そして、弟はこう告げた。 「嬉しいよ、兄貴。ありがとう」 何となく照れ臭くなった俺は、思わず言葉を返す。 「ありがとう」 「おめでとう」 その言葉を最後に、スピーカーは音を流すのを止めた。 その言葉は、きっと曲の中の一節だったんだろう。 俺はプレーヤーからカセットテープを取り出す。 カセットテープの中の録音テープは途中で切れてしまっていた。 俺は、知らず知らずのうちにそのカセットテープをかき抱いていた。 祖母のことを、祐二のことを、律子のことを、課長のことを思い出しながら。 俺に「おめでとう」と声を掛けてくれた人たちのことを思い出しながら。 弟を思い出しながら。 父さんを思い出しながら。 そして、知らず知らずのうちに何度も何度も呟いていた。 「ありがとう」 [完]
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